So-net無料ブログ作成
検索選択

じわじわ染み入るあの感覚。 [身体にまつわるお話]

昨夜はがっつりとお酒を飲んだから二日酔いが心配されたものの、意外にもスッキリ元気な状態で、今まで研究室で仕事をしていた。西田幾多郎の「純粋経験」という概念を理解するためにせっせと読み、心に響いた箇所を抜き書きする。ストンと腑に落ちるというよりも、何度も読み返しているうちにじわじわ身体に浸透していくような読み応えがあり、抜き書きしたものを声に出して読んだ時に「ピン!」とくる場合もあって、なんだかとても愉快である。

そういえばボクが内田先生の著書を読み始めた時もこのような感覚で頁をめくっていた。それほど本を読んでいたわけでもなく、活字慣れしていなかった当時のボクは、わかるようなわからんような不思議な感覚で読んでたことを思い出した。で、何冊も読み終えたころにはその文体に馴染み、書かれてある事がらについて「おそらくこういうことを言おうとしているに違いない」という確信を抱くようになった。西田幾多郎の『善の研究』を読みながら感じているじわじわ感は、あの時の感覚とよく似てるような気がする。つまり、ボクはこうした読み方が好きで、割と自分に合っていて、理解に時間を要するような、つまりは実経験が伴うことで腑に落ちていくような事がらについて書かれた本が好きなのだと思う。という嗜好を形成したのもまた内田先生からの本を読んだからだと思われ、この入れ子構造がまた面白いなと思う。

ということを考えていけば、中高時代の同級生と侃々諤々やった昨夜の宴のことが思い出されて、何をもって「豊かさ」とするのか?、教育の目的とするところは?(社員教育と学校教育の違い)なんてことについて、「オレはここは譲れない」とつい熱くなって皆に食いついてしまったのだが、帰りのタクシーと今朝方にあれこれと考えている最中に、普段感じていたことが次々と腑に落ちていった。まさしくピンと来たのが『街場のメディア論』に書かれている内容で、医療と教育の崩壊を招いた責任がメディアにあるというところ。企業の最前線で身を張る彼らが学校教育のことをどのように考えているのかを肌で感じて、まさしくそこにはメディアから大きな影響を受けていることが直感されたのである。

もう少し書きつづっておきたいところだけれども、このあとは教職員の方々とゴルフの打ちっぱなしに行くのでこの辺で筆をおきたいと思います。それでは今日も、書き捨て御免。



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「"ラグロス”研究中・・・」身体観測第100回目。 [『身体観測』]

 ラクロス部の顧問に就任して早3年目。慣れ親しんだラグビーではなく未知なるスポーツ教えることに当初は戸惑いを隠せずにいた。だが、いつからか楽しむ余裕が出てきたようで、先日行われた夏合宿では練習やミーティングでもっともらしい言葉を口にしている自分に驚いた。ラクロスへの理解はまだまだ浅く、学生同士の専門的な話をすべて理解するまでには至っていないが、ボールゲームという観点から彼女たちが言わんとすることに想像が及ぶようになったからだろう。

 ラクロスは虫取り網のような「クロス」でボールを扱う。ボールキャリアは歩数制限もなくどこまでも自由に走り回ることができる。もちろんディフェンダーは隙あらばクロスをはたき落とし、身を挺して邪魔をするので、ほとんどはパスをつなぎながら攻めることになる。

 このクロスの使い方がなかなか難しい。虫取り網ほどネット部が深くないので、キャッチの瞬間には衝撃を吸収すべくクロスを引かなければ弾かれてしまい、またスローのときも振りかぶりすぎれば遠心力が働いて真上にヘナヘナと上がるばかりとなる。クロス捌きには手先の微細な感覚が求められる。

 あわててラクロスの勉強をするよりも、ほぼ素人的な視点で彼女たちのプレーから感じとれるものを大切にしようと今までは心がけてきたが、さすがに3年目にもなるとクロスくらいはうまく使いこなせないと格好悪いぞと思うようになった。この合宿では以前に学生たちからプレゼントされたマイクロスで学生やOGとキャッチボールを繰り返し、シュート練習にも交じった。ふとラグビーを始めたばかりのときのあのワクワク感が思い出されてなんだかとても心地よかった。

 ラグビー経験に基づくラクロス理解なので僕は勝手に「ラグロス」と名付けている。ラグロス研究の道はまだまだ続く。 

<10/08/10毎日新聞掲載分>

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「純粋経験」を考える、その2。 [「純粋経験」とは]

「純粋経験」について考える、その2。本日のブログはいささか思弁的な内容になる見通しなので、小難しい話はごめんだという方はここで遠慮なく他のサイトに移動してくださいね。ほぼ自分のために書いていこうと思っとりますので。でも興味のある方はぜひとも一度は目を通してみて欲しいなとも、実は思っています(ってどっちやねんな!)。

さて。

まずは、そもそも「経験・経験する」とはどういうことなのかについて考えていこう。

ボクにはラグビー経験がある。19年という長い年月をラグビーに打ち込み、幸運にも日本代表に選ばれてワールドカップに出場することもできた。全国大会優勝メンバーにも名を連ねることができたし、不遇にもたくさんのケガをして身体に傷跡が刻まれることにもなった。また、ラグビーを通じて知り合った人たちは数知れず、中には今も親しくお付き合いさせていただいている人もいる。「親が昔ファンだったのでサインをください」と講義が終わって学生から声をかけられたこともある。酒の飲み方や人とのつき合い方は良くも悪くもラグビー的である。ラグビーをプレイするという直接的な経験はもちろん、ラグビーをしていることであらゆる方面に派生する間接的な経験というのもあり、ラグビー経験にはこの両方が含まれてくる。

と考えていくと、ボクにはラグビー経験があるというときのこの「ラグビー経験」には、知識や教養、生き方や考え方や人間関係などのもろもろがくっついていると考えることができる。今ここにいるボクという人間はラグビー経験が積み重なったものと言えるだろう。

ただし、だ。ラグビー経験だけがボクをつくったわけではない。人間は日常生活の中であらゆる経験を積んでゆくものであり、もちろんボクも例外ではない。小学校の帰り道に石を蹴りながら帰ったこと、親父に叱られてベランダに立たされたこと、中学に入って自転車通学の途中に寄り道したこと、酒を酌み交わしながらグダグダすること、など、それこそ無限に列挙できる。「人間のありようは経験の積み重ねである」と考えれば、ボクはラグビー以外にもいろいろな経験を積み重ねたから今日のボクがいるわけであり、ラグビー経験はその一部にしか過ぎない。ボクという人間のほぼ中心にはおそらくラグビー的なもの、ラグビーから得たものがドカンと腰を据えていることに違いはないけれども、それでもほんの一部にしか過ぎないだろうことは予感できる。それほどに私たちはただ生きる行為の中で無意識的に身につけていくものが多い。

まさしく私たちそのものでもある「経験・経験する」を、ともすれば私たちは知覚や感覚を伴うものだと思い込んでいる。見たり、聴いたり、触ったり、味わったり、嗅いだり、直接的に感覚を通した行為こそが「経験・経験する」だと限定している。トリュフを食べたことがあるorない、ある芸能人と食事を共にしたことがあるorない、大失恋をしたことがあるorない、別館牡丹園に行ったことがあるorない、などなど。直接的に、身体的に何かと触れ合うことがどれほどの気付きと学びをもたらすかについてはなんの異論もない。「百聞は一見に如かず」という言葉もあるように、他人からの話をツギハギするよりも一目見ればそれだけでわかるってことは確かにある。知覚や感覚を伴う経験を身体的経験と呼ぶとすれば、この身体的経験が私たちにもたらす恩恵は計り知れないとも思う。今まで身体を通して感じるものやことを大切にしてきたからこそ、そう強く感じたりもする。

しかし、私たち自身をかたちづくっている「経験・経験する」は身体的経験だけにとどまるべくもない。知覚や感覚を伴うものだけが経験なのではなく、ふと立ち止まって一つのものごとを「考える」という行為もまた私たちをかたちづくる「経験・経験する」となる。これは想像力を働かせてみれば誰もがわかるはずだ。恋愛の最中にある人は相手のことを思いやり、また嫉妬を抱きつつ真剣に「考える」はずだし、仕事や将来への不安を抱えた人はあらゆる方面での思索を試みるはずである。今の自分を見つめ直すために哲学書や自己啓発書を読んだり、映画館に足を運んで物語に身を浸したりもするだろう。まさにこの身を通じて、もんどりうって、身をよじらせて「考える」という行為、「考えたという経験」はまぎれもなくひとりの人間のありようをかたちづくる。

「経験・経験する」という言葉を私たちが口にする時、知覚や感覚を伴い、外部からの刺激が身体に生ずるものに限るような認識がある。だが、本当の意味での「経験・経験する」はそうではない。経験こそが人間のありようをかたちづくるという考え方からは、すなわち人間的営為すべてを「経験・経験する」と解釈することができる。だからボクにとっての「ラグビー経験」はボクという人間においてほんの一部であり、その一部に固執している点で他のあらゆる諸経験を盲目的に見落とすことにもなりかねない。これは、いつも自らの「ラグビー経験」を語る際に感じていたいやーな違和感を解きほぐすのに十分な説明だよなと、今書いていて感じたのであった。

前置きが長くなったけれども、さてここで「純粋経験」である。

「純粋経験」という概念を理解するには、まず「経験・経験する」に抱いている私たちの解釈を少しばかり広げなければならない。そう感じたので少し前置きが長くなってしまったのであった。知覚や感覚が伴わずとも人間的営為すべてが「経験・経験する」であるとして、論を先に進めたい。

「純粋経験」とは何か。もちろん一言で言い表すことなど不可能なわけだが、そこを敢えて言うとすればそれは「心構え」なのだとボクは思っている。西田幾多郎が「しかし、余はすべての精神現象がこの形において現れるものであると信ずる(西田幾多郎『善の研究』32頁)」と述べるように、「純粋経験」は精神現象である。おおよそ私たちが抱いている「経験・経験する」に対するイメージとはこの点が大きく違うので理解に至るのが難しいのだと思われる。「純粋経験」とは私たちの意識上の問題であり、実践する、思索に耽る、沈思黙考するなどの行為にあたる際の「心構え」のことなのだ。

たとえばこの心構えは、漫画『バガボンド(32巻)』の中で宮本武蔵が“今のど真ん中にいるため”と志向する心境と類似しており、また、スポーツ選手がゾーンに入った時の心境ともおそらくは類似していると推測できる。「今の今」に自分自身が寸分違わず収まった時に訪れる、閉じつつ開いている絶妙なバランスを伴ったある種の精神状態であり、また知覚されるものや心象や表象のどれにも居着かない状態といってもいいかもしれない。

「経験するというのは事実そのままに知るの意である。まったく自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交えているから、毫も思慮分別も加えない、真の経験そのままの状態をいうのである(前掲書 30頁)」という冒頭で述べられているこの言葉に、「純粋経験」なるものの意味が凝縮されているのではないだろうか。ここは論文ではなくブログなので、細部にわたって詳しく書くことはしないでおくし、おそらく書けないだろうけれど、禅を取り入れたこの考え方はさまざまな方面への広がりを感じさせてくれる。

「純粋経験」という概念を深く掘り下げていくことで意識というものがどのような構造をしているのかについての想像が膨らむだろうことは、おそらく間違いない。「すべての意識は体系的発展である(前掲書 44頁)」と述べていることからもそれは明らかであり、運動を指導するためには知っておかなければならないだろうとボクが考えている「意識・無意識」の問題に切り込んでいけるような気がしている。また読み進めながらその都度こうして書いていこうと思う。



nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「右肩の傷から学んだこと」身体観測第99回目。 [『身体観測』]

 僕の右肩には10㎝ほどの手術痕がくっきりと刻まれている。その傷を見る度に思い出すのは術後に襲った尋常ではない痛み。あまりの疼きにベッドの上で夜通しのたうち回った。一晩に3度もナースコールで看護士を呼んだ。座薬を入れた直後は幾分か治まるもののまたすぐ痛みは波打つように身体中を駆けめぐる。長い長い夜だった。


 最初に脱臼したのは大学3年生の時。試合でタックルした直後に右腕の感覚がなくなった。目の前のだらりとした右腕にまったく力が入らない。右腕のありかを探ろうにもまるで動かし方を忘れてしまったかのよう。駆け寄ってきた医者に整復してもらうと途端に力が入り、いつもの感覚が戻った。


 脱臼は癖になるからラグビーを続けるなら手術をした方がいいと医者に勧められたものの、身体にメスを入れることに躊躇した僕はリハビリ強化で克服する道を選んだ。しかしその半年後に、それから2年後にも脱臼したことで後がなくなり、しぶしぶ手術に踏み切った。


 手術をすればゼロではないが再脱臼の可能性はかなり低くなる。だから脱臼への不安は解消されて思い切りプレーができるだろうと見込まれたが、そうは問屋が卸さない。長らく身体に染み付いた右肩への不安感は心にべったりと張り付き、タックルする際にはどうしても腰が引けてしまう。理学療法士のもとで徹底したリハビリを行い、可動域も筋力も十分に回復しているはずなのに思い通りに身体が動いてくれない。時間の経過とともに徐々に吹っ切れたものの、不安が完全に払拭されることはなく、右肩には今でも不安感が残っている。


 ケガは身体だけでなく心にも大きな爪痕を残す。一度刻まれた不安や恐れはそうやすやすと癒えやしない。スポーツをする上で最も大切なのはケガをしないこと。肩の傷はいつも僕にそう語りかけてくる。


<10/07/27毎日新聞掲載分>

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「純粋経験」を考える、その1。 [「純粋経験」とは]

西田幾多郎『善の研究』(講談社学術文庫)を読み進めている。さきほど第一編「純粋経験」を読み終えた。この本を開いたそもそものきっかけは、5月に行われた運動伝承研究会にて金子明友先生の口から何度も発せられた「純粋経験」である。この語の意味を、本学におられる三木先生に訊ねたところこの書を紹介された。あまりに有名な書物であることはこれまでラグビーばかりに没頭してきたボクでも知っていて、とてもじゃないが理解できそうもない難解な哲学書を読む気にはならずそのときはさらりと意識の外に追いやったのだが、それでもどこか気にはなっていた。で、ふと訪れた本屋で目についてとにかく買うだけ買っとこうと購入し、つい先日、開いたのであった。

今まさに運動している状態をたとえば「運動主体」と呼ぶとすれば、「運動主体」における意識・無意識の問題をどのように考えていけばよいのか。タックルに入る瞬間、ステップを踏む瞬間、パスをしたり受けたりする瞬間、野球ならばストレートを待ちながらカーブにバットを合わせる瞬間、サッカーだとセンタリングにどんぴしゃのタイミングで走り込む瞬間、私たちはどのように思考し、またどのように思考を手放しているのか。この問題について、これまでのボクは「意識」と「無意識」という二つの概念で説明しようと努めてきたが、それではもう限界ではないかと感じ始めていた。

思考を深めなければこの問題を掘り下げることはできない。そう考えるようになったきっかけとなる考え方が「無意識とは自我が作用していない経験である」。つまり意識をしていない・意識がないのが「無意識」なのではなく、本来ならばほぼオートメーションに働くはずの自我が働いていないということである。もう少し正確に表現するならば「自我を働かせないような意識」が「無意識」ということになる。

たとえば幼稚園から小学校低学年くらいまでの子どもを想像してみる。子どもたちは「まだ何も知らない」。タックルの痛みを知らない。だからときに大人が驚かされるほどスムーズに相手を躱わしたりもできる。立ちはだかる相手が大きくても力が強くても「まだ何も知らない」わけだから恐怖を抱くこともなく、だから何のためらいもなくその瞬間に求められる理想の動きに自らをなぞらえることができる。この子どもの精神状態を言い表せばすなわち「無意識=意識をしていない」となる。

だが、大人は違う。様々な経験からたくさんのことを学んでいく過程で自我というものが形成されていく。その成長過程では痛みや恐怖という感情を身につける。もちろんタックルの痛みもどこかで経験する。するとタックルを怖がる自我というものが形成されるわけで、子どもの時のようにただ思うがままにプレーすることができなくなる。タックルされたら痛いし、でも逃げたらみんなに弱虫呼ばわりされるし、でもでもやっぱり上手くもなりたいな、でも痛いのはいやだしどないたらええねん、なんて意識が立ち上がる。どうしてもこのような意識を抱えながらプレーすることになるのだが、それでも運動主体である瞬間には言葉でのんびり思考している時間など存在しない。原則的に運動主体に意識は働かない。だから先ほど述べた「どないしたらええねん」という意識は、その奥底に沈められて意識に上ることはない。仮にそれを『無意識』だということにする。

それなりに経験を積んだ大人の『無意識』と、まだ経験に乏しい子どもの「無意識」とは明らかに異なる。怖いものなしだから動くことのできる子どもと、怖いという感情がありながらそれでも適切に動くことのできる大人の違いである。で、それなりに様々な経験を積んだ運動主体の『無意識』を、先ほど述べた「自我が作用していない経験」だと解釈するのである。こう考えれば運動に関してモヤモヤと考えていたことがらの幾ばくかが腑に落ちる。これまでのラグビー経験に照らし合わせれば十分にすぎるほどに納得できる。

これまでは『無意識』を「無意識的」という風に書いてきたが、もう少しこのあたりを考えてみようと思い立ち、手に取ったのが『善の研究』だったわけであり、そのために理解しておきたいと欲したのが「純粋経験」という概念だった。

さて「純粋経験」である。正直に言えばたった一度の通読だけではよくわからない。通読といえども第一編だけであるが、それでも難解極まりない文章である。しかし、ところどころは理解に至る部分があり、また細かな内容を度外視すればボクが感じていることのほとんどがここには書かれてある、ということだけはよくわかった。ボクが知りたいと欲することがらがまさに書かれてある。ラグビー選手としてまさにボールをつかまんとするその瞬間、つまり運動主体としての自分が感じていたことが少々難解な言葉たちで明察されていると直感するのだ。

言うなればボクたちスポーツ選手はできる限り余計な言葉を遠ざける習慣を身につけてきた(もしかするとこの習慣はチームスポーツに限られるかもしれない)。頭で考え過ぎれば身体が動かなくなるのは自明の事実だ。必要以上に思考することはパフォーマンスの低下を呼ぶ恐れがあるため忌避されがちとなる。その結果、引退後に自らのプレーについての説明を求められても上手く言葉を紡ぐことができないという現象が起こる。現役ながらあれだけ自らのプレーについての言葉を発することのできるイチローは例外だ。大半の選手は上手く説明することができない。あの時のあのプレーで感じていたあの経験を誰かに伝えることはそう容易なことではないのだ。

では自らに固有の経験を誰かに伝えるためにはどうすればよいのか。それは経験分析をしっかりとすることだ。この経験分析のことを西田幾多郎は「思惟」と言っている(のだと思う)。あの時のあのプレーを振り返り、あのときの経験について細部にわたり「思惟」することで、ボクたちスポーツ選手が感じているはずのかけがえのない経験に初めて意味がもたらされる。優勝したとかトライしたとかそんなデジタルなものではなく、人間学的深みとそこから何かを引き出し得るほど厚みのある個人的経験となりうるのである。

ここからが面白いのだが、西田幾多郎はこの「思惟」をも「純粋経験」に立脚しているのだと言うのである。残念ながらこのあたりのロジックをボクはまだうまく説明することができない。それはボクの理解が至らないというよりももしかすると言葉では永遠に説明できない代物なのかもしれないが、とにかくそういうことだ。ただこれだけは言える。過去のある場面を想起するとは言え、想起するのは「現在」である。現在において想起する主体に訪れる理想的な精神状態こそが「純粋経験」そのものなのだ。直接的に知覚するのでなくとも表象するということにおいても私たちは「純粋経験」なる状態を志向できる。そしてそれはすなわち「今の今」にたえず身を置くことに他ならないのだと、ボクは解釈している。

とまあ今日一日はこんなことを考えていたのであった。
しかし書き殴るとはまさに今日のようなブログのことを言うのだな。
書き捨て御免。



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

割といろいろやってますやんか、ボク。 [あんなことやこんなこと]

今日も朝から研究室に来ている。ラクロス練習には顔を出さず、2010年度上期の研究活動を書き出し、春学期に行った講義内容の見直しと添付した資料の整理をしていた。これまでの研究活動は、2度の学会発表、学内紀要に投稿した論文が1本、『考える人』に内田先生との対談掲載、甲南大学体育会フレッシュマンキャンプでの講演、それに毎日新聞での隔週連載。秋にはある学会での発表内容をさらに煮詰めて論文にする予定もあり、こうして改めて書き出してみるとボクって割と研究活動に勤しんでるやん!と思えてくる。大学院の時の指導教員には年に2本の論文は書いておきなさいと言われているが、これもクリアしているし。ま、研究活動にこれだけやればOKという基準がないことくらいは理解しているつもりだが、それでも今の立場ではある程度は形にしておくことが求められるわけで、その意味でちょっとホッとしている。

と言いつつ、ホッとしちゃっていいのかなという不安も無きにしもあらず。だいたいどれほどの活動を行っておけばあとは自分の興味に基づいて好き放題に研究できるのか。まあ、そんなことは誰も知らないよね。甘いこと言ってちゃだめだなあ。その線をきちんと見極められるようになることも成熟だよな。

ただ今よりもっとハイペースで論文を書いた方がいいよと指摘されたところでたぶん書けやしないだろうと思っている。形として発表しなくてはならないのはわかっているけれど、今の自分が考えているテーマが深まらない以上はどうしたって書きようがない。それなりに文献も読みこまないといけないし、現場に足を運んでいろんな人の話を耳に入れないと、思考を深めるきっかけがつかめない。少なくともボクはそうだ。たぶんゆっくりとものを考える性格だからだろう。すべてとは言わなくても部分的に腑に落ちるものがなければ次に進むことができない。だって思ってもみないことをもっともらしく書くことはとてもつまらないことだからだ。

でもね、意識のどこかに焦りが生ずると、つまらないとわかっていながらもついもっともらしいことを書いてしまおうとする自分が出現する。あの本であの人が主張していた内容をもとに論理を組み立てようとしてしまうのだ。まずは自分の考えがあり、その考えに基づいて引用するのではなく、他人の主張に乗っかるように自説の展開を企てる。定型的な文章を並べるだけだから知的負荷も軽くなるし、何よりじっくりと考えるべき時間が節約できる。見た目に論文らしくすればそれで研究業績にカウントできるから、何ともインスタントだ。

ただこれをしちゃうと自分が著しく損なわれるような気がして、というより実際に大きな傷を負うことになるはずだ。絞り出すように紡いだ言葉は、あとあと読み返せばそこにはある種のカタルシスが訪れるけれど、そうじゃない言葉は著しく自分が損なわれる。

とは言えすべて自分の言葉で思考したことを書くのは不可能なわけだから、それはやはり誰かの言葉をつなぎ合わせることになる。それは単に「引用」ということではなくて、一度すっかり自らの心と身体を通過させた言葉を紡いでいくという作業だ。つまり「この人は何を言おうとしてこの言葉を発したのか」という問いをじっくりと考えるということであり、これにボクはたぶん時間がかかるのだと思う。すぐに理解するまでには至らないのです、ホントに。

ボクに与えられたアドバンテージはラグビー選手としての経験だから、スポーツ教育に関する論文や文献を読む時にたえず参照できるものが身体の中に横たわって眠っている(と信じている)。このラグビー経験だけを純粋に取り出すことは不可能だけれど、読んだり話したりしているときにポコッと思い出されて「ああそうだったよな」とその存在に気付く。だからいうなればずっと参照し続けることでボクのスポーツ経験はその存在を露わにしていく。それにはおそらくそれなりの時間がかかる。というより時間という要因がなければポコッと思い出されることはないのだと思う。たぶんだけど。

というような言い訳を言葉にできたことで少しばかり肩の荷が下りたようだ。研究は自分のペースで、そのときそのときの興味や関心にしたがってやっていくことにする。もろもろの淘汰圧には決して屈しないぞ、という決意を新たにする意味でこうして鼓舞してみたわけだが、それにしてもボクは揺らぎまくりだな。まあええか。ふらつきながらバランスをとっているのだと思い込むことにするか。



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「違和感」を信じてみようと思ったとき、身体を動かしたくなった。 [身体にまつわるお話]

長らくのお盆休みを終えて今日は大学の研究室に来ている。大学としては夏季休暇中だから、学内には通信教育部のスクーリング生と講師の先生方がわずかにおられるだけで、辺りはひっそりとしている。あ、体育館で耐震工事をしているので多少の物音はするけれど。

午前中はラクロスの練習に顔を出し、そのあと、練習を終えた学生たちがミーティングに移動した後の誰もいないグラウンドで、少し走った。40mほどの距離を20本ほど。いかに力むことなく走り終えた後も必要以上に息が切れないように、まるで現役時代の時とは正反対のことを意識しながら、走った。暑さで肌がジリジリしながらも、それでもとても心地よい感じが身体中を駆け巡る。電車に乗っている時や店から店への移動中なんかのときには憎らしいほどの発汗も、身体を目いっぱいに動かし、その後すぐにシャワーを浴びれる環境では十分すぎるほどに気持ちがよい。

走るだけでは物足りず、久しぶりにボールでも蹴ってみるかと、倉庫にあったボールに空気を入れてひたすら蹴った。頭に描くイメージよりもはるか手前で失速する。割とまともにボールを捉えたキックも現役のころに比べれば物足りない。筋力が落ち、定期的に練習しているわけでもないからこんなことは当然の帰結なのだけれど、いざそれを目の当たりに実感すればそれなりに複雑な気持ちが湧いてくる。「もっとできると思っていたけどな」というあられもない期待感が無残に砕け散ると同時に、「いやせめてここからネットに当たるくらいの距離が出るキックを取り戻そう」とこれから時間を見つけて練習しようという意欲が湧いてきた。

そういえば今日はアップシューズだったな。あの頃はいつもスパイクを履いて蹴っていたから距離が伸びなくて当然だよな。とやっぱり負けず嫌いな自分が顔を覗かせてなぜだかホッとする。

さて、そうして久しぶりにラグビー的な運動をしてから研究室に戻って携帯を見ると、他学科でお世話になりっぱなしの先生からの着信がある。かけ直して近況報告を交換したあと昼ごはんに行きましょうということになり、研究のお手伝いで来ていた大学院生と3人で近場のうどん屋さんに。人間関係のあれこれについて話をしながら、この世の中には自分が想像している以上に特徴的な人がいることを、憂いながらも面白おかしく話す。もう笑うしかない、という人がお互いの環境にいて、ホントにもう笑うしかなくて、笑い飛ばすことでしか前に進めないのだからもう笑うしかないのである。

そんなこんな話をしていて思ったのは、やはりボクはたくさんのいろんなことを心に詰め込むことはできないということだ。周囲の人たちの目に映る「ボク」を気にし過ぎるがあまりに、「えっ?」という違和感を覚えた時はまず一度心に詰め込んでからじっくり考え込んで言葉にしてきたが、これまでのこのやり方を少し変えてみようと思い立っている。なんでもかんでもその場で感じたことをすぐに言葉にするのは子供がすることだけれど、そろそろ自らが覚えた違和感を信じてみてもいいんじゃないだろうかと思うのだ。違和感を抱え込むことは論理的な思考が介在するということ。「今のボクが感じた違和感はどういう意味を持つのか?」という問いかけは、感じた瞬間の瑞々しさを著しく損なう可能性を秘める。いわゆる「考え過ぎ」につながる。「感じ」が言葉で表すことのできるものへと矮小化され、言葉というはっきりとした輪郭が与えられたそのものに自らが囚われてしまう。

心を通過させずにおく。たとえ心を通過させてもその瞬間に感じた何かを大切にする。こうした心構えでしばらく過ごしてみようと思う。こうして思い立った時期と、無償に身体を動かしたくなった時期が重なったという事実はとても興味深いなあと思っているが、このあたりのことは今は語らずにおく。なんだかよくわからないがその方がよいような気がするからだ。しばらくは身体が望むように動き、書き、読む。仕事はわんさかあれども、まあなんとかなるはずだ。

今日は春学期に行った講義のまとめをしようと思ったが気が変わった。読みかけの「街場のメディア論」を読み耽ることにする。



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

鈴木武氏を偲んで。 [あんなことやこんなこと]

かれこれ10年くらいお付き合いのあった方が亡くなられていたことを知る。ここのところよくモーニングを食べに行く喫茶店【キューピット】のママの、「ここしばらく鈴木さんをお見かけしていないのだけれど・・・」から始まり、回り回って僕のところに安否を確認できないかという連絡が入った。それが昨日。電話番号は知らないがお家の場所を知ってたので、先ほどブラリと立ち寄ってみるとそういうことだった。

鈴木さんとの出会いは【PURE】という喫茶店。神戸製鋼所青木寮の西隣にポツンとあった「PURE」に、いつからかモーニングを食べに行くのが習慣となっていた。6種類もある豊富なメニューに加えてヨーグルトなどのトッピングもできるモーニングは、当時、栄養学に基づいて身体作りに一所懸命だった僕にとってはまさにうってつけ。「朝のコーヒー」に憧れ始めた頃だったこともあり、また徒歩1分もかからないロケーションも相まって、日々足繁く通った。ランチはママの愛情がこもった日替わりメニューでご飯のお代わりも自由。モーニングとランチ、1日に2度行くこともざらにあった。

そうしてしばらく通い詰めているうちにいつからか店のママと話をするようになった。顔馴染みになればついつい話をしたくなるのが僕の性分でもあり、お互いに顔見知りでありながら一つの言葉も交わさないことになんだか落ち着かなくなるのだ。最初にラグビー部の先輩を通じて足を運んだこともあり、そこにボクの居場所ができるまでそれほど時間はかからなかった。勝った試合の翌日は軽やかに、負けた試合のあとは翌々日、まるで怒られるのを覚悟した子どもみたいに【PURE】のドアを押した。

そこにお客さんとして通っていたのが鈴木さんだった。元神戸製鋼所にお勤めで、定年を迎えられてからは釣り鐘に関する考古学的な調査や研究を為さっておられた。「趣味なんですよ」とはるか年下のボクにも丁寧な言葉づかいで楽しそうに話をされ、鼻っ柱ばかり高いボクのラグビー話に耳を傾けてくださった。昼下がりにコーヒーを飲みながら長々と話をしたこともあった。つぶらな目でニコニコ笑うあの笑顔は今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。

ボクたちが出会った場所である【PURE】は2007年8月4日に店を閉めた。わざわざどこかで約束をして会うような関係ではなかったので、「PURE」がなくなれば自ずと会う機会はなくなる。はずだったが、現役引退後のボクは寮を出て近くのアパートに引っ越しをした。そこから歩いてすぐのところに鈴木さんは住んでいた。本を片手によく散歩をされるらしく、駅からの帰路や関西スーパーで買い物をした帰り道でよく出会した。挨拶をしてお互いの健康を気遣うときもあれば、テクテクと歩く姿をお見かけするにとどまるときもあったが、ボクが住んでるところの近くで調べ物をしながら元気に過ごしておられる気配だけはずっとあった。それがボクにどれほどの安堵感を与えてくれていたのか。お亡くなりになったあとになってその大きさに気づいて、やり場のない虚無感が心を覆っている。

毎日新聞での連載が決まったんですよと告げた【PURE】でのある日。鈴木さんはまるで我がことのように喜んでくれた。スポーツ現役選手で大新聞に連載を持つなんてことは快挙だ、とありとあらゆる賛辞を頂いたことを思い出す。それから2年が過ぎようとするある頃、連載をまとめて本を作ってくださることになった。これは【PURE】のママ、平井さんとの目論見だったようで、編集を鈴木さんが、挿絵を平井さんが描くということで話をしていたらしい。限定5部。連載36回分をまとめた鈴木さんお手製の『平尾剛の身体観測』は今でもボクの宝物だ。

込み上げる感情を抑えきれずこうして書いていると、あとからあとからいろいろな思い出が浮かび上がってくる。【PURE】に集まる常連のお客さんたちは元気にしているのだろうか。鈴木さんが亡くなったことをあのときのみんなは知っているのだろうか。いてもたってもいられなくなり、すぐに平井さんにメールを送信した。

奥さんの話ではソファサッカーを見ながらまるで眠るかのようにそっと亡くなったらしい。苦しまずに逝かれたと聞いてどれほどホッとしたかわからない。お手製の本を上梓する際に一度だけ上がらせてもらった書斎は綺麗に片付けられていて、遺影の中にはいつものあの笑顔があった。手を合わせて家を出た途端に込み上げるものを抑えられなくなり、道端で立ちつくしてしまった。今この瞬間が夏なのか、暑いのかどうかなんてわからなくなった。ただ日差しが降り注ぐ中にいて、まるで地に足がついていないかのようにどうしていいのかわからなくなった。

どこでどのようにして書き終えたらよいのかがわからないので、鈴木さんに作っていただいた本に書いたあとがきを転記して、筆を置きたいと思う。

_______
あとがき

 楕円球を追い続けていたあの頃の僕は、そのうち新聞でコラムを書くようになるとは夢にも思わなかっただろう。グランドの上では多くを語る必要などなく、短い言葉をやり取りしながらボールをつないでトライを目指すのだから、ラグビーはおおよそ「書く」とは似ても似つかない。「ことば」になりにくい「感覚」を頼りにしてプレーするのがラグビーなのである。
 ラグビーに限らずとも、おそらくスポーツはみなそうなのだろうと思う。ボールに対して瞬間的に反応するしなやかな身体があって、行う者はそうした身体を目指して日々の鍛練に打ち込み、試合で発揮する。そして、観る者はしなやかな身体が伸びやかに動く姿に感動を覚える。いくつものしなやかな身体が絡み合うことで生まれるスーパープレイに酔いしれる。
 今になって感じているのは、「ことば」が必要なのはスポーツの内部ではなく外部なのではないかということだ。アスリートのパフォーマンスを艶めかしく活写するには「ことば」が不可欠なのは言うまでもなく、私たちは活き活きと描かれた言説を通してアスリートが実感している「感覚」にアクセスすることができる。
 選手というのは、あらゆる職人が無口であるように自らのプレーを活写することは困難だろうと思われる。緊迫した場面であれほどのステップを踏めたのはなぜかと問われても、そこに理由などない。然るに「ことば」で説明することなどできやしない。「相手選手が向かってきたからそれに対応したまで」なのである。熱い鍋に触れて思わず「アチッ」と引っ込めたのはなぜかと訊かれても、「熱かったから」としか答えられないのと同じ原理である。
 「感覚」と「ことば」は相容れない。
 『身体観測』の連載が始まったのは現役最後の年である2006年。長引く怪我で戦線を離脱しており、その前のシーズンでは一度も試合に出場していない。「もしかするとこのまま引退?!」といった不安を抱えたまま開始したこの連載は、僕にとってとても大きな意味をもっていたのだなと今では感じている。そう感じるのは、『身体観測』を通して現役時代に培った「感覚」を「ことば」にしていたのだなと思うからである。「感覚」の世界であるグランドの上から「ことば」の世界へと足を踏み入れた。粛々と書き連ねることによって、僕はゆっくりと引退への道程を歩んでいたのだと思う。
 僕のラグビー人生を語る上で『身体観測』はなくてはならない。それをこうして1冊の本にまとめることを企画してくれた平井直子さんと、丁寧な編集をしてくれた鈴木武さんには心より感謝している。
 ご両人とは、神戸に住み始めてから約8年のあいだに足繁く通った喫茶店「PURE」でご縁を頂いた。残念ながら「PURE」はもう存在しない。だけど、僕たちの合作である一冊の本はこうして存在している。僕たちが「PURE」で出逢い、僕にとっての「PURE」が何気ない日常の一コマであったことは、いつまでも変わることはない。そのことに思いを馳せてみれば、僕には感謝以外のことばがみつからない。本当にありがとう。
  2008年2月 平尾剛


鈴木さん、ボクは鈴木さんからたくさんのものをいただいたような気がします。でもいただいたものがどういうものなのか、今のボクにはうまく言葉にすることはできません。ただ、軽々しく言葉で表せないほどのとてつもなく大きななにかということだけはわかっています。感謝してもしつくされません。どうか安らかにお眠りされんことを心よりお祈りしています。安寧のうちにありますようにずっと思い続けています。


nice!(0)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。