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「伝統の力、『名前負け』」身体観測第103回目。 [『身体観測』]

 2010年度の関西ラクロスリーグが始まっている。1部リーグに昇格したばかりの神戸親和女子大学はここまで1勝3敗。同じく昇格したばかりの大阪市大に辛うじて勝利を収めたものの、続く3試合は敗北を喫している。全8チーム中で最下位になれば自動降格、7位だと2部上位チームとの入替戦が待っている。1部残留を確定するためには残り3試合で一つは勝ちたいところ。だが、ここからは武庫川女子大、同志社大、大阪国際大という強豪校が相手。やすやすと勝たせてはくれまい。

 格上との試合が続く中で学生たちは対戦相手を詳細に分析し、日々の練習に精を出している。かといって力んでいるわけでもなく、意外にリラックスしているように見える。ただ、このよい雰囲気が結果に表れてこない。勝利に結びつかない、というよりも実力を出し切れていない。その理由を考えたときに辿り着いたのが「名前負け」である。

 伝統校には不思議な力がある。例えば大学ラグビーにおける早稲田大とはただ対戦するだけで心的緊張が強いられる。開始早々にトライを奪われようものなら「やっぱりワセダだ」と無意識に相手の実力を過大評価してしまい、自らを卑下して実力差が際立つ。さらには伝統校贔屓の観客が放つ期待感が大きなうねりとなって独特の雰囲気を醸し出すと、身体が萎縮していつも通りのプレイは望めなくなる。これが「名前負け」である。

 おそらく学生たちの頭の中にはこれから対戦する相手のイメージがはっきりと描かれているに違いない。「作り上げた相手」と想像の中で戦い続ければ自信がすり減るのは明らかである。わざわざ相手を大きくする必要はない。同じ大学生同士、身体能力に大きな差なんてあるはずがないのだから、とにかく思い切って自分たちのプレイを全うすればいい。名前と戦うわけではないのだ。

<10/09/21毎日新聞掲載分>

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『ATHLETE’S ROAD』での連載が始まりました。 [スポーツあれこれ]

うちの大学は今日から秋学期。昨夜から気持ちを切り替えて意欲満々なはずも、どこかエンジンのかかりが悪く、やる気がみなぎってこない。頭では切り替わっても、長らくの夏休みにすっかり馴染んでしまった身体はまだ休みのペースで動きたがっているということだな、おそらくは。でもまあ、やる気があってもなくてもやらんとアカンことはやらなアカンわけで、そんなことはお構いなしに今まで講義の準備に勤しんでおりました。幸いなことに講義1回目はガイダンスなので、1週間でいつものペースを取り戻すべくあれこれしようと思う。

さてと今日は告知がひとつ。ミズノの広報誌『ATHLETE
S ROAD(アスリーツ・ロード)』での連載が始まりました。「がんばり方の科学」というテーマで、スポーツに汗を流している中学高校生に向けてのコラムです。雑誌リニューアルに際して140Bさんから声をかけていただき、企画にもちょこっとだけ携わったものだから、ようやく形になったかという安堵感があります。オオサコくん、いろいろとありがとう。

全4回の連載の初回は“どんどんミスをしよう!”という内容。「ミスをしてはいけない」という過剰な意識はかえってミスを誘発する。だから怖がらずにどんどんミスをしよう、チームメイトのミスも大目に見よう、そうすることで伸び伸びとプレーできる雰囲気が作られるから、結果的にミスは減るものなんだよ、というようなことを書いてます。

スポーツショップ各店に置いてあるらしいのでぜひとも手にとってみてください。ミズノのサイトでも読めるようなのでリンクを張っておきますね。いつかの朝日新聞では桑田真澄さんも「野球を好きになる七つの道」というメッセージを全国の球児に向けて発信していました。奇しくもその3つめには「どんどんミスをしよう!」とあり、「ミスをなくそうとムダな努力をするよりも、ミスから学ぶことのできる選手の方が、成長が早い。それなのに、ミスをした選手を怒鳴りつけたり、罰練習をさせたりするのは野球というスポーツがわかっていない証拠です」と言われています(2010年7月20日朝日新聞より)。

スポーツに夢中な中学高校生の諸君、どんどんミスをしよう。仲間のミスには目をつぶろう。指導者の怒鳴り声は………うーん………聞き流すように努力しよう。もしくはすっぱりやめちゃうとか。あっ、逃げるってことじゃないからね。人間としての尊厳を守るための「勇気ある撤退」なんだからさ。

それではみんなの健闘を祈る。


『ATHLETE
S ROAD』
http://www.mizuno.co.jp/a_r/
「スポーツコラム:がんばり方の科学」
http://www.mizuno.co.jp/a_r/series/2010/12/coach1.html



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茂木さんにフォローされるの巻。 [あんなことやこんなこと]

それにしても驚いた。雑誌や書籍やネット上で不意に自分の名前を見つけた時はいつもドキッとするけれど、ツイッター上で、しかもあの茂木さんからリプライを頂いたことにはさすがにびっくりした。目覚めの気つけになり布団から跳び起きたのは言うまでもない。そして、一度やりとりしただけなのにもう「茂木氏」ではなく「茂木さん」と書いている自分のミーハーぶりにもびっくりだ。まあでも人と人との関係性とはこんなものだよな。イチローや王貞治などどこか遠くの世界にいる知らない人は平然と呼び捨てだしね。

それに伴って一気にフォロワーが増えた。ブログへの訪問数も急上昇。「見られている」という意識はより細部にわたっての思考を促し、書くことに対して背筋が伸びるからそれはそれでうれしい限りなのだが、ただボクとしては不特定多数の合計人数の上昇よりも、内容についての共感つぶやきであったり、酒場での目撃情報的つぶやきだったり、その昔に机を並べた懐かしい友人からのお便り的つぶやきの方がその何倍もうれしかった。懐かしい友人を辿るとその先にはツイッターを始めたばかりの友人を見つけることができたし。

その中でも、昨日のブログに書いた「酒場に足が向く理由」に激しく共感していただいた方からのツイートには、とても励まされた。スポーツ引退後にああやって「じぶん」に固執しているのはボクだけじゃないんだという実感が湧いてホッとしたのである。リプライ、本当にありがとうございました。

これでまた一つツイッター熱が高まったような気がする。「なるほどね、こういうことがオモシロいんよな」という実感が積み重なったというかなんというか。これでいよいよiPhoneが欲しくなってきたぞ。つい先日に心斎橋のアップルストアで現物を触ってきたばかりということも、この購買意欲の高まりには少なからず影響しているはず。自宅のPCが古過ぎることもあってまずはMacBook Proの購入を検討しているのだが、ついでにiPhoneも買っちゃう?!的なノリが芽生えつつあってちょっとコワイ。まあもうちょい考えることにする。と言いつつ、どっちも買わないかもしれないが、こればかりはタイミングでしかない。

さてと、連休が明けたばかりなのにもう休前日を迎えるのはなんだか不思議な気分だが、せっかくだから今日もぶらりと飲みにいくことにするか。いつもの焼鳥屋に行ってみよう。というわけで今日のところはさらば。



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酒場に足が向く理由。 [ラグビー]

この三連休はよく飲んだ。正確には三連休前の金曜日から飲み続けた。具体的に何があったわけでもないが、「飲まなきゃやってられない自分」がそこにいたので飲んだ。そのせいか、今日はなんだか集中力に欠ける。講義の準備をしていても捗らないし、本を読んでもなんだかフワフワする。休み明けの初日にこんな状態では社会人として失格だなと思うも、でもまだ大学は夏休みだからいいよねとちゃっかり言い訳をつくってはいるが。ただよくよく振り返ってみると、連休中には入試の仕事やラクロスの試合があり、おそらくはそっちの方での疲れもあっていくらか気力がすり減っているから集中力に欠けているのだとは思う。お酒のせいだけではないよ、たぶんね。

なんというか、まあ今日はそんな状態である。こんなときはおとなしくできることに邁進するのがよろしい。今日できることってなんだろ?心が落ち着く本を読むか身体を動かすか風呂に行くことかな。事務的な仕事をするっていうのもそうだが。とか言いつつも講義の準備は予定通り進んだから、とにかく力まないようにしながらゆったりと本を読むことにしよう。でもやっぱり走るか。ってどっちやねん!このブログを書き終えてから決めることにする。

お酒を飲みながらいろいろな人と話をしていると、とても落ち着くのがここんところのボクである。すぐさま有用な話をしているわけではなくてむしろ他愛もない話をしているだけなのに、身が収まるような気持ちになる。現役を引退してからというものお酒は年々弱くなっていて生ビール2、3杯でほろ酔いになるけれど、それでもゆっくり杯を傾ければ長いこと酒場でグダグダできる。グダグダと話をすることができる。そのグダグダの中で、どうやらここ最近のボクは何かを見つけようとしている。ということにふと思い当った。

いったいボクは何を見つけようとしているのか。それはたぶん「じぶん」なんだと思う。繰り返し繰り返しこのブログでは書き綴ってきたからまたかよと思われる読者がおられるかもしれないけれど、そのへんはご勘弁いただくとして、つまりボクは現役を引退してからというもの社会の中でのじぶんの立ち位置をずっと模索し続けてきた。「ラグビー選手」という役割を終えた今は「大学教員」としてお仕事をさせていただいている。昨年まではこの役割に縛られていた部分が大きくて、「あくまでも“大学教員らしく”振る舞わねばならない」と見知らぬ世界であたふたしていた。とにもかくにも大学教員としてのデフォルトを追っかけていた。その過程でおそらくボクは「じぶん」を見失ってしまっていたのだと思う。

そこには確実に焦りもあった。社会に何らかのかたちで寄与しているという実感は、生きていく上でとても大切だ。それはつまり「はたらく」ってことに人類学的な意味を見出していることを意味する。自ら強く希望したわけではなくただ偶然にボクはラグビー選手として社会の一員になり、大学を卒業してからはずっとラグビーをすることが「はたらく」ということだった。報酬を得るのは選手時代の晩年になってからだから、この「はたらく」には稼ぐという意味合いは薄い。もちろん自らが好きで従事してきたわけだからそれだけで充実感はあったものの、でもやはり一番の報酬は家族や友人やファンの方々からの反応だった。そこにやりがいを感じたからこそボクは身体が悲鳴を上げるまでやり続けたのだと今では思う。

この充実感は何ものにも代えがたい。ということを引退してから強く深く感じることになった。握手やサインを求めてくるファンの方々の存在、ダメだしをしてくれる昔からの悪友やボクを通じてラグビーに興味を抱いてくれた友人、勝利を喜びながらも身体の心配を欠かせない家族や恋人。こうした人たちの表情や言葉がいつもボクを奮い立たせてくれたのはいうまでもない。元来が怖がりのボクを勇気づけてくれるには充分過ぎた。だからこの人たちの前ではいつも強くあらねばならないと、どこか思っていた節がある。そしてその思いが、何よりの生きがいとなって自らの魂にエネルギーを供給していた。逆に言えばただその思いを拠り所とするだけにとどまり、あまり深く人生を考えることなく生きてきたと言えるかもしれない。

引退してからはこの思いがスコンと抜け落ちた。周りからの視線が減った。注目されなくなった。この現実を受け入れることが予想をはるかに超えるほど、しんどかった。大袈裟でも何でもなく、この社会にボクという人間は必要ないのかもしれないと感じた時期もあった。ただ幸いなことに修士論文というやるべきことが目の前にあり、その後はこうして大学の教員として居場所を与えられた。さらにはボクのことを面白がってくれる方もちらほらいて、その方たちからは大きな愛情を注いでいただいた。実際に仕事やそのチャンスをいただいたこともある。そのことを思い返せば、なんら悩むこともなかったのかもしれないなと今となっては思うのだけれど、当時はそんなことすら客観視できないほどに視野が狭くなっていて、だから社会の一員としてなにかできることはないか、自分が認められるためには何かをしなければいけないと、とにもかくにも焦っていたのだった。

こうして自分を顧みて、「ああそうか、スポーツ選手のセカンドキャリアをボクは地でいってるのだな」と、当たり前に当たり前なことが実感できたときに途端に肩の荷が下りたような気持ちになった。ラグビー選手だった過去はひとまず置いといて、とにかく社会の一員として何とかしないといけないと力んでいたあの頃のボクは、冷静さを失っていたのだろうと思う。まるでシャドーロールをつけた逃げ馬のようにドタバタとゴールを目指して走っていたのだろう。どのくらいのクラスで何メートルのレースかもわからないままにとにかく前に進むことしか考えていなかった。なんとも未熟だったのだ。

つまりボクは「じぶん」という存在を、ずっと自分自身だけで塗り固めようとしていたのだ。そりゃしんどいに決まっている。だってそんなことできやしないんだから。できもしないことをしようとして懸命になることほど、しんどいことはない。できないことはできない。それはつまり正確に表現すると「できているかのように見せかける」ということである。

そしてもっと悲しいのは、見せかけることができていると信じてやまない頑なさだ。おそらく周りの人はじぶんでじぶんを塗り固めようとするその姿を見抜いているはずだ。そんなことなどつゆ知らずせっせせっせと塗り固めるじぶんを手放せないでいる頑なさは、ちょっとどころかかなり悲しい。

幾度かツイッターでつぶやいた「瞬発系から持久系に」というフレーズにはこういう思いがこもっている。自分がやろうとしていること、もしくはやっていることに対して時間をおかずに反応を欲するのは、おそらくこれまでのラグビー経験で培われたもの。レギュラーになるために、試合に勝利するために、スポーツはとにかく短期間で目に見えるかたちにしてその成果を出さなければならない。立ち止まってじっくりゆっくり考えるよりもとにかくパフォーマンスを優先させる必要がある。こうした環境に長らく身を置いたことで、ボクの中に「瞬発的思考方法」が醸成されたのだと思う。ただ性格が頑固なところもあるから「そんなこといったって考えてしまうもんは考えてしまうねん」と、“じっくり思考”を完全には手放すことはしなかった。だから言うなればボクというちょっと変わり者がラグビーというスポーツ経験を通して身につけたというのがより正確な表現だろう。瞬発系や持久系など思考の仕方そのものを考えるなんてこと、ほとんどのスポーツマンはしなさそうだし。

今現在できることを最大限に引き延ばすことを「瞬発系思考」だとすれば、あらゆる可能性を吟味した上でより時間の射程を広げるのは「持久系思考」である。これはどちらかがよいというわけではなく、時と場合によって両方ともに必要な思考方法だろう。両者のバランスを取ることによってより濃密な思考が生まれ、人生がふくよかになるのは間違いない。今のボクはやや「瞬発系」に偏りつつある。だから焦ることなくちょっとゆっくりと考えていこうやないかと、そう思っている。「できているかのように見せかける」ことから離れ、また一から自らを築いていく余裕を持ちたいという願望がある。

つまりボクは、やや歪んだかたちでいる自分自身を少しでも解きほぐすそうと、もともとあった「じぶん」というものをみつけたくて酒場に足が向いている。やたらと飲みに行きたい、それはつまり顔見知りの人たちと顔を合わせて話をしたいということなのだが、ここんところ感じているこの衝動は、自分自身をこれ以上は歪めないようにしようという決意の表れでもあるのかもしれない。飲んで話して、話して飲んで、そうこうしているうちに、すっかりと自分自身が解きほぐされる。そのときに一つの真理の存在に気がつくのではないだろうかという気がしている。それは、そもそも「じぶん」などというものは存在しないということ。この真理に辿りつくためにはありもしない「じぶん」を探す時期が必要であり、それが今なのかなと、そう思う。

いつまでも「じぶん」にしがみついているとロクなことはない。と、諸先輩方は言ったり書いたりしている。たぶんボクはこの意味を半分程度にしか理解していないのだろう。それはつまりまだ腑に落ちていないということだ。腑に落ちるその日まで、とにかく今は酒場に行こうと思う。自らを曝け出すことの怖さを酒が緩和してくれるだろうと期待して。



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何を外に出し、何を出さないか、それが問題だ。 [あんなことやこんなこと]

目覚めるや否や茂木健一郎氏の連続ツイートに目を通すのがここんところの日課となっている。鋭い洞察のもとに紡がれた言葉は目覚めてすぐのボーっとする頭にはよく効く。「二度寝したいなー」なんて呑気なことを考えている場合ではないぞと思わせてくれるには十分である。

と言いつつ毎回毎回そんな風かと言えばそうでもなくて(どっちやねん!)、「ふーん、なるほどねー」と読んだ瞬間はそれほど心を動かされない日もある。でもそんなときほど昼メシ時などに思い出されて後からジワジワ得心に至ることが多い。もちろん「えっ、それは違うんとちゃうかな」とほとんど納得できない時もある。

とにもかくにもここんところのボクの一日は氏の熱いツイートを読んでから始まる。

それで今日のツイートはどうだったかというと、読んだ瞬間に激しく得心して感動すら覚える内容であった。と同時に、この時間になってまたふと思い出して「うん、うん、まさしくそうだよな」と反芻して再び昂揚するほどで、即効性と持続性を併せ持つ連続ツイートなのだった。

というわけなので今日はこのことについて少しツラツラと書いてみたいと思う。

茂木氏は仏教の根本思想である「無記」についてつぶやいていた。「霊魂があるか、死後どうなるのか、どうして我々はここにいるのかという問いに対しては、「無記」を貫く。これが、仏教の根本思想である」のだと言う。

「無記」とは、人生の真理にかかわるような大切なことはむやみやたらに語らず胸の中に収めておけばよいという考え方である。いたずらに真理を語ることはかえって健全なる生き方をする上で妨げになると、仏教は教えているということだ。

これを読んだときには「なるほどな」と思った。

仏教だけでなく宗教というものは、死後の世界や霊魂や自らの存在意義などについて徹底的に考え抜く。科学的に説明できないものを説明するために宗教はある。というよりも歴史的にみれば宗教的な知にとって代わって世界を席巻したのが科学的な知なのであるから、科学でもってしても決して到達できない深遠なる知こそが宗教で扱うべきものとなる。それはつまり、先ほども述べたように死後の世界や霊魂や自らの存在意義などである。これらの深遠なる知というものは生き方をふくよかにし、死への恐怖や将来への不安をいくらかでも和らげるためにある。だから悩める者は救いを求めて宗教の門を叩くのである。

しかしだ。たとえ難行や苦行などの修行を通じて悟りを開き、不安や恐怖を和らげてくれる真理なるものを手に入れたとしても、それをむやみやたらに語ってはならないと仏教は教えているのだという。なんだよ、せっかく到達したんだから教えてくれてもいいやんかと、一見するところなんだかケチくさい話に聞こえるかもしれないが、ボクにはこの教えこそが真理に思えてならない。

この教えが意味するものは、おそらくこういうことだろう。

真理なるものは他人からツラツラと説明を受けて理解に至るものではない。自らの身体を通じてあくまでも腑に落ちるようにして到達することのできる境地である。だからたとえ自分がその境地に達したとしても、その境地についていくら言葉を並べて表現しようと試みたところで不可能であるし、むしろその言葉がかえって聴く者の修行の邪魔をすることになる。ゆえに多くを語らず、真理への到達を目指して努力する者が今まさに感じている苦しみや悩みを取り除くことを、まずは考える。苦しみや悩みが軽くなればまた次の一歩を自らの意志で踏み出すことができるようになるからである。

だからといって頑なに何も語らないというわけではない。それは時と場合による。茂木氏のツイートにもあるように、極楽について語ることがその人の苦しみや悩みを取り除くことができる場合は躊躇なく語ってもよい。自らの足で進もうとする姿を黙って見守ることこそが大切だと説きながらも、道中で動けなくなった人には寄り添って話を聞いたり傷の手当てをしたりすることが、真理に到達した者に求められる振る舞いなのである。

そして氏は次のような言葉で締め括っている。

(ここから引用)
フロイトが明らかにしたように、どんな人の無意識の中にもどろどろとした感情がある。自分の気持ちのうち、何を外に出し、何を出さないか。ここに人間の聖なる選別があり、魂の尊厳がある。(…)大切な問い、思いを胸に秘めたまま、黙って日々を生きること。「無記」の思想は、私たちの生にとってのかけがえのない叡智となり得る。
(引用ここまで)

“誠実でいることとは心のうちをあますところなく表現することだ”
茂木氏の言葉を読んでボクはこんな勘違いをしていんだなと気付くことができた。なにを外に出してなにを外に出さないか、それはつまり秘密を抱え込むことの心的負荷を受け入れるということでもある。その心的負荷から逃れようとして「ボクはいつも正直なのだ」と振る舞うことはまさに子供がすることであり、周囲をヤキモキさせることにもつながる。だからこの心的負荷は受け入れないといけない。というよりも、この心的負荷を受け入れることで初めて生きるってことが輝き出すのだと思う。

「無記」の思想を実践する人たちで構成された社会を想像してみれば、なんとも清々しい気持ちになる。もちろんそんなことは不可能に違いないけれど、せめて一定数の人たちがこうした思想を体現しなければ社会というものは成り立たない。「雪かき仕事」をする人間がいなければ社会は維持できないのである。

「無記」の思想か…。深い。




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「懐かしのコウベ」身体観測第102回目。 [『身体観測』]

 三洋電機ワイルドナイツvs東芝ブレイブルーパスの試合を皮切りにラグビートップリーグが開幕した。3年連続準優勝で今年こそ優勝をと切に願う三洋電機が安定した戦いぶりで勝利を手にしたが、破れた東芝も終了間際にトライを奪うなど底力を見せつけた。その戦いぶりからは両チームともに順調な滑り出しを決めたと思われ、今年もこの2チームを軸にリーグが展開していくことはおそらく間違いないだろう。

 その翌日に長居スタジアムで行われた神戸製鋼コベルコスティーラーズvsクボタスピアーズの試合を見た。古巣の開幕試合に足を運んだのは2年ぶり。スタジアムの入り口付近ではかつての友人たちと言葉を交わし、観客席へと向かう途中でスタジアムの熱気に包まれるといやが上にも気分は盛り上がる。「やっぱりラグビーはいいもんだ」と甘酸っぱい懐かしさが口の中に広がった。

 今年の神戸製鋼には特別な想いを抱いている。ステップの軽やかさやパスのしなやかさなどの身のこなしに以前から着目している正面選手が今年度より試合に出場可能となったこともそうだが、それ以上に、同級生の大介(大畑)が引退を決意して臨むラストシーズンだということ、それから現役時代にはグラウンドの内外で的確なアドバイスをくれた苑田さんがヘッドコーチとして臨む初めてのシーズンだということが大きな理由だ。

 刻一刻と選手生活の終わりが近づく中では1試合1試合がとても大切に感じられるに違いない。試合ごとに込められたその心を感じるべく視線を注ぎたい。また、過去の栄光と決別した上で低迷するチームを立て直すのは容易ではない。チームが変貌していくそのプロセスに注目しよう。

 かつてのチームメイトがどのような想いを抱きながら走り、また采配を振るうのか。目一杯に想像力を働かせて見届けようと思う。

<10/09/07毎日新聞掲載分>

 
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「純粋経験」を考える、その4。 [「純粋経験」とは]

今日という一日は会議もなくずっと研究室でダラダラ読み書きしておりました。相も変わらず『善の研究』を読んでいるので、意識と無意識の境目をどのように表現すればよいのか頭の中がグルグルしております。自分で言うのも何なんだけど「純粋経験」という概念をおそらくボクは直感的にはわかっている。わかっているのだけれども、じゃあそれを誰か他の人に説明してみてくださいなと言われたらほとんど右往左往してしまうと思う。それはつまり本来の意味での理解には至っていないってことになるのかもしれないけど、ただこの「純粋経験」という概念を深くまで考えれば考えるほどにこういう理解の仕方もあるよねと思えてくる。「理路整然と説明できないけれどもボク的にはわかっている」という理解の仕方があるのだと思う、たぶん。

だって、西田幾多郎はこんなことを言っているのですから。

(ここから引用)
完全なる真理は個人的であり、現実的である。それ故に、完全なる真理は言語にいい現わすべきものではない、いわゆる科学的真理の如きは完全なる真理とはいえないのである。
(引用ここまで)

おそらくボクの頭の中には「純粋経験」なる概念が芽吹いている。「こんな感じなんやろなあ」という自信なさげな理解ではあるけれども確実な手応えがある。ただそれを言葉巧みに言い表すことは到底できそうにない。「少なくとも今は」という条件がつくにしろ、説明はできない。西田幾多郎のこの言説からは、説明ができないという事実こそが完全なる真理を予感させるには十分であるが、まあこれは説明できない自分への苛立ちとその言い訳かもしれない。

ただだからと言って説明責任を放棄するわけにはいかないとも考えている。どうにかして運動主体におとずれる精神状態や意識現象をわかりやすい言葉で説明したいと思っている。ただこの西田の言葉からすればそれは叶わぬ願いに終わりそうなことも事実。でもね、おそらくはできる。説明の仕方を工夫すればできるのではないかと思うのだ。

その方法とは、「純粋経験」そのものをひとつひとつバラして記述するのではなくて、「純粋経験」なる世界があるのだということを具体的な場面をかき集めることで指し示すこと。主観と客観、理想と現実が解離せずに存在する世界、迫りくる刺激にただ反応するだけの一見他人任せのようで実は時の流れと一体化している境地、こういった意識状態というものがあるんだよということを記述する。そして、こうした記述を読んだ人がなんとなくではあっても「純粋経験」なるものに想像が届けば、あとは身体の深奥が理解するのを待てばよい。たぶんこういったものなんじゃないかと思う、「純粋経験」を理解するということは。言うなれば「純粋経験」そのものは「純粋経験」という世界でしか知ることができないというか。

またややこしいことを書いてしまった。まさに今のボクが思考中なのでこういった文章になってしまうのは仕方がないか。ややこしいのに最後まで読んで下さってありがとう。それでは皆様よい週末を~。



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ラグビーシーズン到来、今年は正面の追っかけをします。 [ラグビー]

あまりに気持ちがよかったもので先週は3回も「灘温泉」に足を運んでしまった。猛暑続きなので湯船で温まるのは逆効果だと考えられるのだが、どうしても身体が行きたがっているような気がしてつい足が向いてしまった。クーラーの影響や、部屋の外と中の温度差などで実は夏場の方が身体が冷えている、とは幼少から聞かされた母親の教えだが、それを実証するかのような身体の疼きにもしかするとそうなのかもねと、今更ながら母の言葉に納得しかけている。体感的にこれだけ暑いのだから身体が冷えているなんてことはないだろうと思っていたけどねー。このままだとたぶん今日もぶらりと立ち寄りそうな気がする。

この週末はラグビー観戦。大阪・長居スタジアムで行われた神戸製鋼コベルコスティーラーズvsクボタスピアーズを見に行く。開幕戦をライブで見るのは2年ぶり。ブースでチケットを受け取り、久しぶりに顔を合わせた面々と少し話をしてからそそくさとスタジアム内に入ると、1試合目の近鉄ライナーズvsリコーブラックラムズの試合が目に飛び込んできた。試合会場独特の雰囲気を感じて懐かしさがこみ上げてきて「やっぱりラグビーってええよなあ」と改めて思う。思いもかけないタイミングで決別してからというもの、ずっと穏やかならぬ気持ちでいたことに今さらながらに気がついた。というよりも、現役引退してから4年が過ぎようとしている今だからこそ気がつくことができたのかもしれないけれど。まああんまりごちゃごちゃ考える必要はないだろうし、考えたくはない。ボクがラグビーに育ててもらったことは何ら疑いの無いことなのだから。

試合はというと神戸製鋼が安定した戦いぶりで6トライを奪って快勝。武術的な身のこなしと断じて疑わない正面選手の相も変わらず柔らかな動きに目を奪われて、何とも言いようのない気持ちよさを感じることしきりであった。伸び伸び、活き活きと動き回る身体を目の当たりにすれば見ている側の身体も伸び伸び、活き活きとなる。気持ちの上でも昂揚してくる。これは脳科学的にも証明されていることで、私たちの脳内にあるミラーニューロンの働きによるもの。しなやかなステップを踏む動きを見ている側の脳内でも、しなやかなステップを踏む時に発火するニューロンは活発に活動している。実際に身体が動いていないにもかかわらず脳内では「シミュレーション」が行われている。それゆえに見ているだけでも気分が高揚してくるのだ。

落ち着いたキック処理、相手を引きつけてから絶妙なタイミングでのパス、相手と接触する際の身のこなし、さらにはオガジン(小笠原選手)との連携もよく、それを見れただけでも足を運んだ甲斐があったというものである。一緒に見ていたラグビー初心者の相方が「足音が聴こえなさそうな走り方やなあ」とつぶやいたのだが、まさしくそれは踏ん張らずに力を抜いて走っていることの証左であり、うまい表現だなと思ったのですっかりいただいた。みなさんも、もし彼のプレーを見る機会があれば「足音が聴こえなさそうな走り」を堪能してみてくださいな。

彼のプレーを見る以外にも今年は楽しみにしていることがある。それは同級生である大介(大畑)が引退を決意して臨んだシーズンであり、また現役時代にグラウンド内外でお世話になった苑田さんがヘッドコーチとして臨む初めてのシーズンだということ。かつてのチームメイトがどのような想いを抱いてシーズンを戦うのかがとても楽しみなのである。詳しくは明日の毎日新聞に掲載される身体観測に書いたので読んでもらえれば有り難い。どうぞよろしくお願いします。

2010年、今年もラグビーシーズンの到来である。ラクロス関西女子リーグはもう始まっているので、そのレポートについてはまた後日に書くとします。



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「純粋経験」を考える、その3。 [「純粋経験」とは]

複数の本を同時に読み進める方がより深く理解できる。ということに今更ながら気がついた。というよりもここにきてようやく思い出したというところか。意識を拡散させておく方が知識や情報の吸収率は高くなる。これは「忙しい人にこそ仕事を頼め」という言葉にも通ずるよな。じっくり考える時間があり過ぎると見事に迷路にはまりこんでしまうということだ。

というわけで今は『善の研究』も読みつつ、『噛みきれない想い』も『街場のメディア論』も『天地明察』も読んでいる。過日のブログで書きますと宣言した「空気を切り裂くものとしての水=通常性」についての理解を深めるために、『空気の研究』も読まないといけないし、さらには秋学期の講義準備として『スポーツの風土』と『近代スポーツの実像』も読み返したい。これだけあれば理解するに越したことはないだろう。どれから手をつけていくのかは秋学期開始日から逆算して決めるか、それともその日の気分次第で決めるかになるが、まあ流れに身を任せて読むだろうな、きっと。

そういえば雑誌「Number」では“アスリートの本棚~読書が彼らを強くする”という特集が組まれていて、サッカー日本代表の長谷部誠選手やカーリングの本橋麻里選手、サッカー元日本代表監督の岡田武史氏などがそれぞれに好きな本を紹介している。長谷部選手は白洲次郎が好きで、ドイツで過ごす自らの境遇と重ね合わせて読んでいるという。驚いたのが陸上400mハードルの為末大選手。なんと『善の研究』を手にする写真が掲載されていて「おお、まさに今ボクも読んでますけど!」となぜだかうれしくなった。しかも奇遇なことに誕生日が同じで、5月3日生まれ。年齢はボクの方が3つ上なんですけれどなんだか不思議な感じがしております。

ボクの場合はすっかり現役を退いてからこうして読み進めているわけで、まさしく過去を振り返りながら「うん、うん」とうなずくことしきりなんだけれど、為末選手の場合は今まさに現役選手なわけで、あの内容をいったいどのように解釈して、そしてどのように競技に取り入れているのかにとても興味がある。あれだけの内容を言葉でインプットすれば、すなわち言葉で論理的に理解してしまえば、実際に身体を動かす際に引きずられたりはしないのだろうかと、ちょっと訊いてみたい。陸上競技はラグビーと違ってとことんまで自身の身体だけにフォーカスすることができるから、あまりその辺りのことはもしかすると気にならないのかもしれない。どうなんだろう。

こうしてトップアスリートが読書をしている事実を広く社会が知ることには大きな意味があると思われる。「純粋経験」なる概念に触れれば触れるほどに、「考えること(思惟)」と「おこなうこと(感覚・知覚)」はともに人間として必要な経験であることに変わりはないのだという確信がボクの中で大きくなりつつある。西田幾多郎が「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」を出発点として思考を展開しているように、経験の集積こそが人間であるからには「考えること(思惟)」も「おこなうこと(感覚・知覚)」双方ともに経験であることに変わりはない。人に自慢できるほどの経験でなくともただ生きているだけで身についていくようなささやかな経験が積み重なって、私たちひとりひとりの人間性はかたちづくられている。その経験の仕方に違いがあるだけなのだ。

一般的にスポーツ選手は主に「おこなうこと(感覚・知覚)」から自らの人間性をかたちづくっており、「考えること(思惟)」をどうしても疎かにしがちな傾向にある。考えるためには言葉が必要である。その言葉は感覚とは相容れない。感覚は、身体を動かすには欠かすことのできない大切なもの。だから「ごちゃごちゃ考えずに(言わずに)とにかくやってみろ!」という指導がスポーツ現場では為されるのであり、実際そう指導された方がうまく動けたりする。本来ならば考えながら行い続けることが奨励されるべきなのに、どうしても身体的実践に偏った指導が横行するのにはこうした理由がある。

でもこれには限界があって、より高度な身体運用を目指すにあたってはやはり自らの頭で考え、それを踏まえて身体を動かすというサイクルを実践しなければならない。ただ機械のように反復練習をするだけでは到達し得ない境地というものがある。機械的な反復からは機械的な身体運用しか身につかない。

その点でトップアスリートはやはり考えている。「考えること(思惟)」と「おこなうこと(感覚・知覚)」をバランスよく経験したからこそ、ハイパフォーマンスを発揮できるようになったのだ。だから真のトップアスリートが読書に励むのは当然のこと。「考えること(思惟)」も「おこなうこと(感覚・知覚)」もともに経験なのだから。

てなことを元アスリートは考えているわけだが、その実ボクは現役時はそれほど本を読んでいたわけではなかった。おそらく無意識のレベルで言葉というものを忌避していたのだろうと今では推測している。動けなくなるのがわかっていたから。だからこそ壁にぶち当たり、ラグビー選手として自らが思い描いていたイメージに届かなかったのだろう。さらには身体を損なうことにもなったから、やはり「考えること(思惟)」はとても大切なことだと思う。たださっきも言ったように言葉と感覚は相容れないから、パフォーマンスを発揮するためにはどこかで言葉をふっ切る必要がある。論理的に積み上げた思考をひとまず括弧に入れなければならない。

この作業にアスリートとしての知性が表れるのではないかと思う。このあたりのことはまだうまく言語化できないけれど、今の段階で想像するに、言葉を打ち消すような言葉を手に入れるまで考え続けるというか、曖昧さを際立たせる言葉を手に入れるというか、それこそ知っているのに知らないフリをするという芸当を身につけるというか、たぶんそんなことなのかなと思う。

いずれにしても真のトップアスリートは読書を好み、思考することを厭わない。そうボクは思っているし、そうあって欲しいとも思っている。遅ればせながらボクがこうしてささやかに考え続けようと志したのは、「おこなうこと(感覚・知覚)」に偏り続けた過去とのバランスをとりたいと無意識的に願ったからなのかもしれない。偏りがあったからこそ、そこに楽しさを見つけられたのかもしれない。


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「未来への敬意」身体観測第101回目。 [『身体観測』]

夏の風物詩である全国高校野球選手権大会は興南高校の優勝で幕を閉じた。猛暑続きで体感的には夏の終わりが感じられないが、高校野球が閉幕したとなればなんとなく秋の始まりが予感される。

最も印象的だった試合は仙台育英―開星である。開星が2点リードで迎えた9回表。1点を返され、なおも2死満塁のピンチならがあと一つアウトを取れば開星の勝利。仙台育英の打者が平凡なフライをセンターに打ち上げた瞬間、ボクは開星の勝利を確信した。しかし、そのフライをセンターがまさかの落球。走者2人が生還して逆転を許す。捕っていれば試合終了だっただけに開星としては悔やまれるエラーである。

だが、その裏、開星も意地を見せる。2死1、2塁、1打出れば同点、長打が出れば逆転サヨナラの場面でヒット性の当たりが左中間に飛んだ。抜ければ恐らくサヨナラ。しかし、仙台育英レフトの三瓶選手が横っ跳びでボールをつかみ試合終了。二転三転する試合展開に興奮を覚えずにはいられなかった。

見ていて違和感を覚えた選手の身ぶりが2つある。まずは9回表。フライが上がった瞬間、開星のピッチャーはボールの行方に視線を送ることなく勝利を確信してガッツポーズをした。そして、その裏、開星最後のバッターは左中間にヒット性の当たりが飛んだ瞬間、右手を突き上げた。捕球するともヒットになるともまだ確定していないにもかかわらず、勝利を手にしたかのように振る舞ったのである。

気力が充実し実力が拮抗したチーム同士の試合で勝敗を分けるのはわずかな心のスキだ。「なにが起こるか分からない」という未来への敬意を欠けば勝利の女神はそっぽを向く。最後まで見届けなければ勝利を掴み損ねることもあるのだ。

<10/08/24毎日新聞掲載分>

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