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「史上再弱」のバトンタッチ。 [ラグビー]

それにしても入替戦に回るとは予想もしていなかった。京産大に負けたあたりから今年も優勝は無理そうだなと感じてはいたけれど、まさかの関西7位にはすっかり意気消沈である。ボクが4回生の時は関西5位に終わり、中京大との決定戦を経てやっとこさ大学選手権に出場した。ボクたちの学年は自他ともに認める「史上再弱の同志社」だったが、これで自虐ネタにすることができなくなってしまった。ちと寂しい。

街の兄貴である金村さんとも話をしたのだが、ながらく関西3強だった同志社、京産、体大が毎年順番に入替戦に回る事態は誰が想像しただろう。昨年、一昨年とかつてのライバル校が入替戦に回る事態を、ボクは恥ずかしながら対岸の火事と捉えていた。昨年の時点では母校が入替戦に回ることなど爪の先ほども予想していなかった。でも、冷静に振り返ってみれば今年の事態を予想できた人などいるのだろうか。どう考えてもいるはずがない、よな。

ただこうして実際に入替戦に回ることが決まってからは途端に不穏な空気が流れはじめるから不思議である。いざ現実のものとなってしまえば弱体化の原因を探り出す人たちがいて、それがエスカレートしていくとこうなることはさも必然だったかのような語り口で、あることないことが氾濫する。一ファンとしての熱意の裏返しで手厳しい言葉が繰り返し語られることを批判したりはしないけれど、そこにやや高い目線で加わって同じように語ることだけはしてはならないよなと思う。つまり「こうなることは薄々感じていた」的な言葉。自らを大きく見せるためのそうした言葉の連なる場をしっかり見極めたいし、こうした言葉をつい語りたくなる衝動がボク自身の中にも芽生える可能性にも想いを馳せておきたい。特に酒の席では。

 「同志社どうなんてんの?」という質問には安易に答えてしまわないように心がける。ささやかだけどそれが今のボクにできることだ。OBのあいだではこれからいろいろな原因が言挙げされることだろうが、そこではより建設的な意見を口にしたい。危機感をもつこと。そこからしか何も始まらないと思うからだ。あれが悪い、これが悪いと身内で言い合うのではなく、再起に向けてどのようにしていったらいいのかを、たとえ解決策が浮かばずとも話し合うべきだとボクは思う。間違っても現役選手に敗因を求めてはいけない。

「関西5位」のメンバーから言わせてもらうと、「史上再弱」を背負うのって結構キツイのですよ。今だから揶揄できたりもするけど、ずっと心のどこかで引きずっていたのは否めない。だからさ、現役選手には入替戦には持てる力のすべてを出し尽くすことを目指して一日一日の練習に励んでほしいと思う。勝敗なんてさ、監督やコーチに押しつけてしまえばええねん。そんなことよりも4回生最後の試合を今までで一番ええ内容にすればいい。下級生は4回生とともにプレーする最後の試合だと思って存分に走り回って当たりまくればいい。外野の声なんて気にするな。10年たったら酒の肴になるんだからよ。近い将来、「関西7位&入替戦」と「関西5位」が同志社ラグビーについて語りながら飲む、という構図もまたおもろいやないか。

負けることなんて想定していないけれど、とにかく「ええ試合」をして欲しいとだけは思うのである。てなわけで11日の入替戦は観にいくことにした。

後輩たちよ、がんばるのだ。



 

 


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「まずは声を聴くこと」身体観測第107回目。 [『身体観測』]

 スポーツ現場はにぎやかだ。特にラグビーやラクロスなどのゴール型競技では「かけ声」で埋め尽くされている。声を出せば練習は活気づくし、声をそろえれば仲間同士の一体感も深まる。散漫になりがちな集中力も保たれやすくなる。しかし、「声を出すこと」の主たる目的は選手同士のコミュニケーションを円滑にすることにある。

 当然のように、パスをする側と受ける側には繊細なコミュニケーションが求められる。パスする側はどうしても自分をマークする相手に気をとられて視野が狭くなりがちなので、どちらかといえば受ける側が積極的に声を出すことになる。「どのタイミングでパスが欲しいのか」、「自分はどのポジションにいるのか」、「とりまく現在の情況」などを的確な言葉で伝えなければならない。黙って待っているだけではいいパスは回ってこないのである。

 だから「声を出しなさい」と口酸っぱく指導されるのだが、これが意外にも難しい。黙っていてはいけないと思いつつも言葉がすぐに浮かんでこない。的確に「意思」を伝え、「指示」を出すには、後の展開を予測する力を養わなければ難しい。だが、声が出せない原因はもっと根本的なところにある。それは「誰も聴き手がいないという情況」である。

 大学時代の恩師である岡仁詩先生は「コミュニケーションとは声を出すことと聴くことである」とおっしゃった。緊迫した局面が続く試合では、その一言があるかどうかでチャンスがピンチになることもある。まさに一刻を争う状況では、きっと誰かが聴きとってくれるにちがいないという信頼がなければ声なんて出せるものではない。自分の発した声に「よっしゃ」「OK」といった一言があるかないか。この一言の積み重ねがチームに有機的なつながりをもたらすことになるのだ。

 仲間の声を聴く。まずはそれからだ。

<10/11/16毎日新聞掲載分>



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ラグビー三昧の週末。 [ラグビー]

先週末はラグビー三昧。土曜日は、関西大学Aリーグの試合、同志社大学対関西学院大学の試合を見るために、神戸ユニバー記念競技場まで足を運ぶ。100周年という節目を迎えた我が母校の同志社大学は、今シーズンはここまで前代未聞の低空飛行をみせている。残り2試合の時点で2勝3敗。関学大との試合を落とせば大学選手権出場に黄色信号が点滅してしまうほど崖っぷちに立たされている。関西リーグで負け越すのも、大学選手権に出場できないのも史上初だという。

片や関西学院大学は、近畿大学に不覚をとったもののそれ以外は順調に白星を重ね、4勝1敗で2位。1位は評判通りの戦い振りで全勝街道をバク進中の天理大学。その天理大に1敗をキープしたまま最終戦で勝利を収めれば関西リーグ3連覇となるだけに、関学大としてはこの試合は是が非でも落とせない。


伝統校の名を汚すものかという意地と、優勝するためには落とせないという意地とがぶつかり合う試合なのであった。

結果は28-25で関学大の勝利。点差はわずかながらもその実力差にはやや開きがあったように見受けられた。それはゴールライン付近での攻防に表れていたように思う。同志社は自陣ゴールライン付近でのディフェンスに粘りがなく、また相手ゴールラインを目前にしてのアタックに余裕がなかった。アタックに関してはモールを組んだ後のプレー選択がお粗末で、押し切るのかそれともいつかのタイミングで仕掛けるのかといった判断がチームとして共有されていなかったように思われる。「行き当たりばったり」という印象だった。選手一人一人の描くイメージがバラバラな分だけ焦りが生じ、ミスが出るという悪循環。「何としても勝たねばならない」という悲壮感が視野を狭くしたのだろうと、後輩たちのアタフタした戦い振りからそう感じないわけにはいかなかった。

対する関学大には落ち着きが感じられた。おそらく試合を通じれば同志社大の攻める時間の方が長かったように思うが、いざゴール前まで攻め込んだときには確実にトライをとっている。数少ないチャンスを生かすことができたのは集中力の高さで、集中力を高めることができたのは、これから行おうとするプレーへの理解度(これは次のプレーを予測する力と言い換えてもよい)が深く、それをもとに選手それぞれの描くイメージが共有されていたことに尽くされる。つまり、味方選手の咄嗟の動き出しに身体が自動的に反応できていた。これはディフェンス時にも発揮されており、だから3点差を背負いながらも守り切ることができたのだろうと思う。

個々の動きにばらつきがみられた同志社大と個々の動きが呼応していた関学大。この試合に限らずとも選手個々が有機的につながっているチームは強い。パスもキック後のチェイスもモールも、すべてのプレーが滑らかになる。

これで同志社大の自力での大学選手権出場は消えた。天理大と関学大の2強、それからここまで全敗している摂南大を除く5チームが混戦状態なので、次の摂南大に勝ち、他チームの試合結果次第では選手権出場の道は残されているが、今季の低迷ぶりはやはり心配だ。関学大は1週空いて、関西リーグ優勝をかけて天理大と対戦する。

翌日の日曜日は大阪大会決勝を見に花園まで。久しぶりに決勝まで進出した母校である同志社香里を応援するためである。春は常翔啓光学園に勝ち、選抜大会で東福岡を追い詰めて準優勝を果たした大阪朝校に引き分けるなど、好調ぶりが伝わってきており、みんなでこれは期待できるぞと胸を躍らせていた。16年ぶりの全国大会出場も夢ではないぞとかなりの期待を抱いていた。

でも、この期待は木っ端微塵に粉砕された。一言で言えば「ディフェンスの差」。個々のタックルの踏み込みが甘く、システムとしても綻びがあった。ただアタックに関してはみるべきところはあり、バックスリーの走力には分があったように思う。ノーガードの打ち合いな試合展開となり、最終的には体格の差にものを言わされたような試合だった。

とても悔しいけれど、必死になって走って当たっている後輩たちの頑張りからはいっぱい元気をもらったような気がする。悔しさをにじませる後輩たちをみれば「ようがんばった」という言葉しか浮かんでこない。一番悔しいのは彼らなのだ。そんな彼らを見て、かつてボクもそこで走っていたんだよ、と少し誇らしげに思っている自分を発見できたことはうれしかったなあ。

祝勝会から一転して残念会となった試合後の宴では、恩師と歴代OBの方々と後輩たちと、今日の試合の総括やこれからの香里について侃々諤々。懐かしい面々と話してるといろいろな思い出が後から後から湧いてくる。「そういえばあのとき…」という枕でどんどん話はつながり、マッシュ(中・高の時の監督)からは教育者としてのアドバイスをいただき、でもラグビー話をしているうちにいつの間にか同じ目線で語り合っていたり。マッシュはやっぱり熱い。

皆がどんどん酒の海で溺れそうになる中で、やっぱりラグビーはええなあと思った。悔しさをぶつけ合い、今日の反省はこのプレーでじゃあこれからの戦い方はどないしたらええねんと自論を語ったりする中で、引退を余儀なくされてからというものどこか斜めからみていたラグビーがまた自分の手元に戻ってきつつあるような感覚を覚えた。そうだよな、オレはかつてこの人たちと同じ場所にいて、同じような経験をして、そして今があるんだよな、という当たり前で当たり前なことが後から後から実感として溢れてくるものだから、飲み過ぎずにはいられなかった。ラフロイグのソーダ割りがとてもとてもおいしかった。

たとえ一度でも穿った視線を注いでしまったツケがこれほどまでに尾を引くとは夢にも思わなかった。ごめんなさい。どうやら相当にかっこをつけていたようです。ボクはラグビーなしでは生きていけません。そのことがよーくわかりました。

そして、この自分自身が充実していくような感覚を、ボクが体得したラグビーの技術と一緒に、次の世代にもパスしていかないといけないんだな、ということもわかりました。

そんな風にして迎えた週初めの今日、明日が休日だから講義の準備もほどほどに『500年前のラグビーから学ぶ』(杉谷健一郎、文芸社)を読んでおりました。数百年という時間の中でたくさんの人の想いが連なって今のラグビーがある。それはラグビーに限ることではなく、現存するすべての制度や文化や慣習に当てはまること。あらためて歴史を振り返ることの大切さと面白さを再認識しました。ラグビーというスポーツには人を熱狂させるだけの「何か」がある。その「何か」を語り継いでいきたいと思う。



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「なにか」に触れる、乱読と通読。 [身体にまつわるお話]

乱読や通読というのは自分の中にある無意識に働きかけるという意味ではとても大切なのではないか。

と、曇りがちな休日の朝にふと思いついた。

書かれてある内容を正確に記憶する。たとえば固有名詞や数字を忘れないように気をつけながら読み進めるのは、なにか大切なことを置き去りにしているような気がしてならない。講義をするための準備として、このような読み方が必要なのはよく理解している。実際には固有名詞と数字を間違わないように何度も頭に叩きこみつつ、ど忘れしたときのためにノートの端にメモ書きもしている。そもそも本を読むことの目的の大半は知識を蓄えることにあるのだから、当然といえば当然の作業であるし、この読み方がもしかすると王道なのかもしれない。

でもね、たぶんだけど、それだけじゃ不十分な気がするのだ。あらゆる本を同時並行的に読む「乱読」、細かなところを気にせず一気に読む「通読」をすることでしか理解することのできない「なにか」がある。と、ボクは思う。朧気ながらにでもそれをつかんでおかなければ、固有名詞や数字をかき集めたところで本当のところでの理解に至らない。だから講義としても不十分になる。なんというか、オウム返しをしているだけに思えて、どこか自分の話す言葉が空疎に感じられる。別にボクじゃなくてもそこらにいる誰かが話してもいいような内容になっているようで、表面がつるりとしたそんな話に学生たちはワクワクするはずもなく、お互いに徒労を感じることになる。

今さらだけど、やはり本はじっくり読み込まないといけない。

いろいろな読み方でじわりじわりと読まないといけない。と、ボクは思う。昨夜、ツイッターでも呟いたが、大学からの帰り道で車を運転している最中に、『純粋経験』(@西田幾多郎)のひとつである「意志」が、ふっと腑に落ちた。イメージがパーッと胸のあたりに広がった。頭じゃなく、胸のあたりに。うまく言葉で説明できないけれど、「なるほど、こういうことか」という納得が得られた。これもね、まずはじっくりゆっくり読んで、抜き書きして、理解はできなくても通読して、常にカバンの中に入れておいて開ける度にその存在を目にして、という一連のお付き合いがあったればこそ、得られた納得なんだろう。

ここ最近はお風呂に入りながら村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(文藝春秋)を読んでいるのだが、リラックスしながら言葉を目でなぞっているときにちょいちょい引っかかるフレーズが、ある日常の一コマで心が波打ったときにふと浮かんできたりもする。それは「判断するのではなく観察すること」だったり、「誤解の総体が本当の理解である」だったり。それはおそらく言葉の奥にある、村上春樹自身が身を焦がして考えて辿り着いた「なにか」に、ふと心が揺れるからだろう。その「なにか」に、少なくとも今のボクは助けられている。それらのフレーズに、心とカラダがほぐれるのを感じている。

だから細かなことは気にせずとにかく本を読もうと思う。おもしろそうな本を手当たり次第に、内容を覚えようと肩に力を入れることなくさらりと。そうしていろんなものを無意識の中に放り込んでおいてから、固有名詞や数字を追うことにする。固有名詞や数字をアンカーにして話を組み立てることができれば、言葉が後から後から湧いてくるあの感じをいつも体験することができるようになるんじゃないだろうか。って、そうなるにはかなり果てしない道のりが続くだろうけれど。

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おとなになるってこと。 [あんなことやこんなこと]

些細なことで「カチン」とくるたびにもっと大人にならないといけないなと感じる。とはいえ「カチン」にはいろんな種類の「カチン」があるから、そのすべてに大人にならんとアカンなと感じていたら、それこそストレス地獄でたまったものではない。譲れないところは譲る気もない、という性根を持ちながら、それでも謙虚な姿勢でいなければならないところに、その困難さが凝縮している。

う~ん、おとなになるのはむずかしい。

大人になることは言いかえれば成熟するってこと。成熟する、か。なんだか深みが増してさらに難しくなったような気がするぞ。どないすればええんやろか。

ガキっぽい振る舞いをしないことが大人になるってことでもない。ボクが憧れるええ大人な方たちはガキっぽいところがたくさんある。ガキっぽいといえば語弊があるな、無邪気なところ、だな。笑えるところでは声をあげて底抜けに笑う。思わずつられてしまうあの笑顔にはこちらもワハハとなる。その人たちのことを思い浮かべてみたときにまず浮かんでくるのは底抜けの笑顔だ。そしてまたボクはにやけてくる。今もにやけている。

ボクは大人になりたい。早く成熟したい。そう思う。そう思えば思うほど、大人から遠ざかっていくような気がするのはどうしてだろう。「大人を目指している」という身ぶりこそがまだ子供であることは重々承知しているけれど、それを自覚したところでボクの今のこの気持ちが鎮まるわけもない。「大人ぶる」のがもっとも子供な態度であることもわかってはいるけれど、それでもやっぱり大人になりたい。さらに欲を出せば、ガキっぽいところを残したままに大人になりたいなんて考えていたりもする(これは以前にもよく書いてたけれど)。

というようなボクが思い描いている大人像はこんな感じ。

「みじかい言葉で表現しきれない感情」をそのままの状態で心においとける人。ありきたりのフレーズや誰かの言葉で象ってしまわないで、ある経験と結びついたり、誰かとの共感がきっかけになってかたちになるまで、じーっと待ち続けられる人。

やっぱり難しいですね。ソリッドな考え方にまみれてきたボクにとってはとくに難しいです。胸のあたりがモヤモヤしたあの感じに耐えられなくなって、つい話したり書いたりしそうになる。その勢いで話したり書いたりしてしまって自己嫌悪になること、とても多し。

まあぼちぼちいきます。
なんせ「大人ぶる」のは子供のすることですから。
おとなになんか、すぐにはなれません。


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「プレーを象ること」身体観測第106回目。 [『身体観測』]

 ラクロスに関わって今年で3年目。選手経験がないだけに技術に関するアドバイスには慎重になりながらも、身体の使い方やパスについては積極的に声をかけている。流れるようにつながったパスは見ていて気持ちがよい。たとえ素人目にもそれは美しく映る。また、現役時代に得意なプレーだっただけに、相手を躱わすときの身ごなしにも僕はこだわっていて、ステップワークにはどうしても意識が向く。華麗な走りは見る者を魅了する。練習を見ていて、思わず目を奪われて心が動かされたプレーがあれば間髪入れずに褒めるようにと心掛けている。

 ある学生に「今のはよかったよなあ」と声をかけたら、満面の笑みを浮かべて喜んでいた。また別の学生に同じように声をかけたら、「どこがでしょうか?」と逆に問い返された。ラクロス初心者の僕に見る目がなく、見当外れのポイントを褒めてしまったのかと自らを省みたが、そうではなかった。彼女は、一連の動きの中で具体的にどのプレーがよかったのかを詳しく知りたかっただけだった。

 自分のプレーの良し悪しを知りたがるのは選手の性分だ。『スラムダンク』には、主人公の桜木花道がビデオに撮った自らのプレーを観て愕然とするシーンが出てくる。頭の中に描いていたスマートさとは対照的に、まるで素人なシュートフォームに桜木は落ち込む。イメージと現実の相違。競技力を向上させたいと望めば望むほどに、この違いは選手の意識につきまとう。それを薄々感じるからこそ、その溝を埋めようとして自分のプレーを客観的に捉えようとする。

 上手くなってるかどうかがよくわからないという不安を選手は抱えている。この不安を少しでも和らげるにはやはり褒めるに尽きると思われる。プレーの良し悪しを適切な言葉で象ることも指導者の役割だなと、またひとつ気付かされた。

<10/11/02毎日新聞掲載分>


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正義の人。 [あんなことやこんなこと]

「正義の人」はなかなか激しい言葉を突きつけてくる。その激しさに触発されないように、腹の底に力を入れてグッと堪える。それから言葉を選んで話を返しても、またさっきとは違う角度から正義の鉄拳が振りかざされる。えーっ、今のボクの話はどこへいったのでしょーか、と驚いている暇もなく、またもやごもっともなことを告げられて、しょげる。半ば心あたる部分があるだけに傷つかずにはいられないから、しょげる。

まあいいや、ここはひとつ右から左に流すかと思い立ってみても、そううまくはいかないときもある。というか、うまくいかないときばかりだ。いつもうまくいかない。ついつい言葉を飲み込んでしまう。そうしてひとつひとつ正義の言葉を飲み込むたびに、ボクの中にある正義な部分が刺激されてだんだん憤ってくるのがわかる。そのうちに心の中に正義の言葉がポコッと生まれてきて、それを発したい衝動に駆られる。この衝動にまかせてあれこれ言葉を発してしまうと「売り言葉に買い言葉」になるんだろうな。それはいやだからグッと飲み込む。そうして負のスパイラルに陥る。うー。

分かり合うことってホントに難しい。「相手をわかる」のも難しいし「自分をわかってもらう」のも難しい。こんなことについて考えるのもまた、難しい。

ちなみにこの「正義の人」をボクはきらいじゃないのです。むしろ好きだし、尊敬もしている。だからしょげてるんだろうなあ。それにしてもいい天気です。

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勝ちにいくこと、ひとりで暖簾をくぐるまで。 [あんなことやこんなこと]

本日はスポーツデイ。朝から夕方まで、スポーツ好きの学生たちに教職員も加わって玉入れやリレーなどの運動会種目と、フットサル&ソフトバレーボールに汗を流したのでした。午前中は女学院での講義があったので、それが終わるや否や舞い戻り、すぐに着替えてグラウンドに。ほとんど手加減なくフットサルに興じたものだから、学生たちから「大人げないですよ~」という声をかけられることしきり。でもそんなことはお構いなし。やっぱりね、勝負事は勝ちにいかないとダメです。フットサルだけに身体接触が起こるからそこだけは手加減したつもりですが、それ以外は走りましたよ、ええ走ったさ。おかげで今は足首周辺に運動後特有の張り感があります。まるで油が切れたかのようなギシギシ感。これは現役時代の度重なる捻挫の後遺症なんだろうと思うけれど、でもね、身体を動かしたことの充実感の方が強いからあまり苦にはならないのです。あー、楽しかった。

教職員チームは4試合して3勝1敗。一つ負けたのは、サッカー部を中心としたチーム。我がチームは3試合目ということで体力が残り少なくなっていたこと、且つ2勝したことで気持ちの上でスキが生まれていたこと、が敗因になろうかと思う。たかが遊びといえどもやはり負けると悔しい。麻雀だって、楽しく打つのが目的などと言いつつもやはり負けると悔しいものだ。負けを受け入れるその振る舞いには節度を保つ必要があるにしても、勝負が決まる前はやはり「勝ちにいく」という姿勢は必要不可欠。そうでないと楽しむどころではなくなる。リードされて迎えた後半はさらに大人げなくプレーしていたのは、だからそういうことなのだよ、学生諸君。

フットサルでさんざん動いたあとは、打ち合わせが一つ。毎年ボクが担当している合格者懇談会の内容に関する打ち合わせ。来年度入学予定の生徒たちを集めての懇親が目的。ほぼ昨年と同様のプログラムでいくのでそれほど仕事量は多くない。とりあえずホッとする。でも、今週中に仕上げないといけない原稿がまだ終わっていない。はあ、今から職場の先生と飲みにいくことになってるし、書くとすれば明日の学祭準備日の合間か、学祭の当日か。ラグビーに関する内容なのでスイッチが入ればグイーンとテンポが上がることは間違いないのだが…ってホンマかな。まあいい。

飲みに誘ってくれた先生はまだ会議中。それが終わり次第、飲みにいくことになっている。今日はどこへ行って何を食べ、何を飲むのだろうか。おいしいもん食べたいし、おいしいお酒が飲みたいなあ。最近はぶらりとひとりで飲みにいくことも増えた。ということはつまり、ひとりで立ち寄っても楽しく飲めるお店があるってこと。さすがに知らないお店にひとりで飲みにいくにはまだ抵抗がある。誰かに連れていっていただいたお店で、そこから何度か足を運んでいろいろな話をしてるうちに、「ひとりで来ても大丈夫そう」な感じがつかめたら、機会をみつけて暖簾をくぐる。このタイミングがね、なかなか難しいんだなあ。

「行きつけ」とは呼ぶにはまだ時期尚早な気もするが、そこのマスターとはよくメールをやり取りするようになりやたらと話が弾む、湊川にある寿司屋「S半」は、この前のブログに登場したMさんに連れていってもらった。たぶん1年ほど前。そこから一緒に何度か足を運んで、ひとりでぶらりと立ち寄ったのは1カ月ほど前のこと。なんだかね、とてもいい感じで落ち着けるお店なのです。ホントに。つい先日一緒に行った相方は「すべてにやさしい味」と言ってました。なるほど言い得て妙だなと。つまり、ひとりでぶらりと立ち寄るまでには約1年もかかっているわけで、このじっくりと腰を落ち着けて待つ時間があったればこそ、今になってこうして心地よく過ごすことができているのかなあと思ったりする。というか、たぶんにそういうことなんだと思う。

いずれは店名もバッチリと書きますけれど、そのときはきちんと「行きつけの店」として紹介したく思います。

さてさて会議はまだ終わらぬようだ。あー、お腹が空いたぜい。



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縁側に座りなおしまーす。 [あんなことやこんなこと]

あっというまの11月。先月はほとんどブログを書かなかったが、これほど書かなかったのはおそらく初めて(ってホントか?)。まあでもいいか。このことを追求していけばまた長々としたブログになってしまいそうなので、やめる。

つい先日、焼鳥屋で偶然に出会ったMさんと飲んでいたときにこの「CANVAS日記」の話になった。ハードリーダーであるMさんは、腑に落ちたフレーズに出会ったときにはいつも声をかけてくれる。「あれ、わかりますわ―」という一言にいつもボクは清々しい気持ちになる。ボクが大学院のときからお付き合いがあり、一緒にお酒を飲む機会も多い。初対面のときに中村天風の話題で一気に盛り上がり親しくなったという方で、Mさんとの飲みはいつも熱い話に花が咲く。そんな方にあらためてこんなツッコミを入れられた。

「ここんところは長い文章が多いですねー。トップページにある“
縁側でお茶を啜りながら遠目で語るようにおっちらおっちらと…”じゃなくなってきてますよねー。短くてもいいからもっと気楽に書いてほしいなー」


ほんまや。とその時、思った。とにかく大層なもんを書かねばならぬと、いつかどこかの時点で決めたに違いない。たとえ無意識にであっても自分にかけたその暗示はずーっと自らを縛っていたんだなと、ハッと我に返ったのであった。そうやんな、個人のブログやもんな。もっと気楽にリズムよく書いてみるかと、そう思い立っての今日である。せっかく「呪縛」を解き放っていただいたのだから、書けなかった理由を思い返してクダクダと書くのだけは何としてでも避けるのだ。

それにしても無意識というのはおそろしいほど大きな影響を心に及ぼすものだ。本人が気づいていないだけにそれは厄介なのだな、うん。こうした無意識と上手く付き合う方法がまさにルーティンであり、一度始めたことを簡単にやめないということであり、意味を求めたり考えたりしないということであり、ドクターが言うところの「発生ベース」であり、こういったことなんだろうなあ。

ごちゃごちゃ考えずにまずは書く。確か少し前のブログにもこうした決意を書いたはずだが、気にしないでほしい。頭でわかったところですぐに実践できるほどボクは賢くない。と開き直っておいて、とにかく書くことにしたのだ。立ち止まって考え過ぎることなく、ある一定のスピードの範囲を保ちながら言葉を連ねていく。書き進めていく。そうしていくことにした。整えられた想いがまずあってそれを言葉に置き換えていくのではなく、言葉を重ねる行為を通じて自分が思っていたことや考えていたことは整えられる。そう思って書いてきたはずやんか、これまでは。なのにいつの間にか失念していた。というよりも、こうした真理は絶えず言葉にして反芻しておかないと忘れてしまうということだろう。あっ、そうか、反芻するためのブログだったということか。なるほど、納得。

自分が書いたものを読み返した時に「へー、ボクってこんなこと考えてたんや」という気付きが得られるように、まずは書くのだ。うん、書くぞ。おー。

という決意表明でした。なんだか新しいステージに一歩を踏み出す感じだな、うん。


 


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