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酒びたりの年末と暮れのご挨拶。 [あんなことやこんなこと]

気がつけば大晦日。ごったがえす御影クラッセで買い物を済ませた後は大阪の実家へと車を走らせる。ガラガラの高速道路をぶっ飛ばし、サンデードライバーが右折や左折にもたもたする一般道路をややせっかちに運転して昼過ぎに到着。今はコタツに足を突っ込みつつ、それにしてももう大晦日なんだなと時間の流れの早さにたじろいでいるところである。もう大晦日か。冬休みに入ってからボクはいったい何をして過ごしていたのだろう。ちょっと振り返ってみるとするか。

クリスマスの夜の【別館牡丹園】での大忘年会はいつものようにおいしすぎて、だから飲みすぎて、楽しすぎてはしゃぎすぎた。2次会にとお邪魔した江さん宅でのひとときもこれまたサイコーに愉快で、このわたや練りうにをなめつつの日本酒が「パローレパロレパローレ」な夜でした(とにかく愉快だったってことです・笑)。翌日はやや体調を崩して鼻炎になったのもまあご愛嬌。

それからいつもの焼き鳥屋【栄太郎】でのひとりこっそり忘年会もしたな。いつものカウンターでしみじみと飲んだ後は【THIRDROW】に立ち寄ってラグビー談義。偶然一緒になった大学の先輩軍団と同席して盛り上がりました。

旨いもんと酒にまみれる甲南麻雀例会は2010年を締めくくる最終決戦の場。タイトル争いに名を連ねることができなかったボクは、勝率3割以上というささやかな目標達成のために打つ。その日、未勝利で終わるかと思われた3戦目の最終局、倍満直撃を食らわしてのトップ奪取という奇跡の大逆転ホームランに気分よく2010年を終えることができたのであった(O迫くん、堪忍・笑)。また、帰りがけに立ち寄った【仁】もまたとても楽しく刺激的な時間だった。ああいった話ができる仲間がいることの幸せを噛み締めております。

ほいでもって昨日は行きつけの鮨屋【すし半】にての忘年会。この3人が集まれば話のほとんどは「そもそも話」。つまり本質的なお話。言ってしまえばオチのない話で、あちらこちらに話題が飛びながらも最終的に落ち着くのは内田先生の本をめぐってのお話だったりする。3人ともが内田本のヘビーリーダーなので話が早いんですね、これが。昨日は日ごろ知らないうちに蓄積されていた悪性のガスをお二方に抜いていただきました。ありがとうございました。

てなわけでやっぱりこの間は酒浸りな生活でした。つい1週間前まで仕事だったのが信じられないほど、冬休みの生活にどっぷりと浸かっています。まあいいですよね。休みなんだから。せっかく気が休まる時間なのだから。てなわけで今から大人買いした『チェーザレ』をコタツに入りながら読もうと思います。

2010年も拙ブログを読んでくださり、ありがとうございました。やや更新が停滞しがちだったにも関わらず、根気よく訪ねてくださったことに心から感謝してます。まだしばらくは気まぐれ更新が続くかもしれませんが、なるべく早くいつものペースに戻そうと思いますので、気長におつき合いくださればと思っています。

それではみなさまどうぞよいお年をお迎えください。



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研究室の掃除と絵本。 [あんなことやこんなこと]

クリスマスイブの今日は昼過ぎから大学に来て研究室の掃除に勤しんでいた。デスク周りに積み上がった書類や本を整理し、無ジャンルに雑念としていた本棚もある程度までは整えた。すっきりさせ過ぎるにはまだ学期が終わっていないので時期尚早。だから、「ある程度」まで片付けたというわけだ。埃をはたいて拭き掃除をして掃除機をかけた。

予定ではそのあとに身体観測の原稿を書く予定だったのだが、どうも筆がうまく運べそうにないので(実際には“指”なのだが)ツイッターを覗いたりつぶやいたり、パラパラっと本を読んだり。ゼミ生が残していったポテトチップスに目が止まってつい袋を開けてしまったり。そういえば逆立ちもしたっけか。その最中にお隣の先生が訪ねてきて笑われたっけか。てな具合でグダグダとしてるうちに行き着いたのがブログなのであった。ここんところ更新が滞っていたこともあるし、書くしかないぞと思い立ったわけである。

なんだか11月に入ったあたりからはあっという間だったような気がしている。そのせいか昨日で年内の講義を終えた途端にちょっとした放心状態に陥ってしまって、昨夜からずーっと心がフワフワしている。ちょっとゆっくりしたいというのが本音である。他の人はどうなのかわからないけれど、まだまだボクには講義の準備にある程度まとまった時間と労力が必要になる。研究も覚束ない中で競技経験を追いながらそれを言語化する作業はなかなか思ったように捗らないのだ。たぶん鈍くさいんだろうなとは思う。

ボクには考え過ぎるきらいがあり、そのことは十分に自覚している。けれど自覚しているからといってうまくそこから抜け出せるかと言えばそうではない。「考え過ぎている」状態から抜け出すためにまた考える、といった無限ループに陥ったりもする。そんなときってかなりの緊張状態を強いられるわけだから、お酒でも飲んでちょっと緩和しないとずっぽりと闇にはまりこんでしまう。別にお酒を飲まなくてもちょっとだけ生活のペースを落とす必要があって、そうでないと言葉に言葉を上塗りしてしまい、結局のところ煮詰まってどうしようもなくなってしまうのだ。ボクは。

でもまあこんな自分もどこか愛すべきところがあるよなと、半ば呆れかえりながらも少しだけうまくいなせるようになってきたなと自分で自分を思えるようにはなった。もっとさらりと考えてみようと努めはじめてたりもする。というのは最近、絵本の奥深さに気付いたからだ。とくに五味太郎の絵本はとてもおもしろい。そして深い。頭ではなく胸のあたりがじんわりにじんでくるような読後感がある。ほんわかした感じのあの絵には思わず微笑んでしまうしね。難解な単語が連鎖する哲学書を読むこともまた楽しいのだけれど、それとは違った楽しさや面白さが絵本にはある。

この身にしみている経験や実感は実のところシンプルなんだけれど、そのシンプルさには直接触れることはできなくて、言葉をなぞってグルグルと複雑に思考することでしかおそらく到達できないんだろうと思う。なぜそうなるかについての思考を繰り返すことでしか、身体的な実感は言語化することができない。そうして言語化された言葉は至ってシンプルなもので、いわゆる詩的な表現を纏う。文学的な表現になる。こういうことなんじゃないかなと。

さーて、そろそろ研究室を後にするとしよう。結局のところ原稿は書けなかったな。




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「“史上最弱”の称号」身体観測第109回目。 [『身体観測』]

 同志社大学ラグビー部が関西リーグ7位に終わり、全国大学選手権の出場を逃すとともに下部リーグとの入れ替え戦に回る。この事実を知ったときはさすがに驚きを隠せなかった。ここ数年の戦績が振るわなかったにしてもまさか大学選手権への出場が絶たれることになろうとは、OBをはじめとする関係者一同、夢にも思わなかったに違いない。ましてや入れ替え戦を戦うなど誰が想像できたであろうか。

 僕が4回生の時の成績は関西リーグ5位だった。関西第5代表決定戦に勝利し、かろうじて大学選手権には出場できたものの、1回戦で現在ほど実力が抜きん出ていない早稲田大学に敗退を喫する。前年度には大学選手権準決勝に駒を進めたこともあり、「今年はいけるぞ」という関係者やファンからの期待は大きかった。そうした中での関西5位である。期待が大きかっただけにその落胆振りは著しく、卒業後も先輩方から「関西5位チーム」と揶揄され続けた。

 こんな経験も今となれば懐かしい思い出として酒を飲みながら楽しく話ができる。だが、卒業してしばらくは期待に応えられなかった悔しさを引きずっていた。同志社ラグビー史上最弱の学年であることの後ろめたさがあった。ラグビーが頭の中のほぼすべてを埋め尽くしていた学生時代の僕にとっては受け入れがたい現実であり、できることならやり直したい。そんな想いも心のどこかにあった。

 このたび同志社史上最弱を更新された。新たな最弱メンバーに元最弱経験者から一言だけ言わせてもらえるならば、勝負は水物だということ。勝つときもあれば負けるときもある。こちらがどれだけ最高のパフォーマンスをしたところで相手がそれを上回れば負けるのだ。という勝負の本質をふまえた上で、「史上最弱」がいつか酒の肴になる日まで大いに頭を抱えればよい。

<10/12/14毎日新聞掲載分>


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読んだり書いたり、はぐらかしたり。 [あんなことやこんなこと]

「それなりの決意と忍耐をもって勉学に励め!」とか「お前たちのことを思って怒っているんだ!」とか、ただ嗾けるだけで学生たちが勉強をするようになり、受講態度もよくなるのならば、教育って何ぞやという問いはまったく意味を為さなくなる。ただ苦しさを乗り越えるだけで成長できるほど人間は単純にはできていない。個々人の性格や思考ペースや興味や関心などに心を配りながら、同じ内容の話をするにしても切り口を変えて言葉を連ねないと伝わるものも伝わらない。こんなことは敢えて言うまでもなく自明なことだと思っていたけれど、どうもそうではないみたいだ。

これみよがしに否定してみせるのもそれは不安の表れだったりするのだろう。こちらとしてはこう考えている、というのを示しておいて、あとは受け手のあなた方で判断してもらえばよい。という態度でいられないのは心の中が不安でいっぱいだからだろう。過去を振り返ればボクにも思い当たる節があるし、つい気を許せば他者からの言葉に対して「でもね…」と頭から否定してしまうことだってままにある。そんな自分にあとから気付いて自らの狭隘さにガックリくる。そんなことの繰り返しだ。ただ「ガックリくること」を自覚できているだけちょっとはマシなのかなと思ったりもする。

言葉というのは本当に怖い。暴力よりも痛いものだ。何かの拍子でダイレクトに心に突き刺さってしまうと全身に痛みが広がり、その痛みにしばらく引きずられることになる。その痛みはカラダで感じる痛さとはうって変わって、迷いや不安や恨みからくる漠然とした浮遊感みたいなもの。心の中で次々にネガティブなイメージが広がっていき、それがやがて身体のあちこちに悪さをほどこして暴力性をかたちづくる。なんとも厄介な痛みなのだ。

言葉はだから大切に、丁重に扱うべきなのだと思う。とは言え、過保護なまでに大切にし過ぎると滑らかに言葉が連ならなくなり、思考も停滞する。軽快なリズムで言葉を紡ぎながらも、でもひとつひとつの言葉を大切に考えるというアクロバット的な所作が求められるところに、言葉を扱うことの難しさはある。

ときに言葉は滑る。しまった、と思ってももう遅い。でも、滑らせないことにはうまくリズムに乗れないという体感もそこにはある。ひとつひとつの言葉、ひとつひとつの文章に心が囚われれば、つまり居着いてしまえば書いたり話したりはうまくゆかない。いや、書くには書けるし話すには話せるのだが、自分を含めた読み手の心にやんわりと届けられるようなテクストには到底なりえない。

あまりにも言葉に無頓着な文章や話が耳に入ってくるとたまに心が暴れ出すことがある。そうなるのはボク自身の性格でもあるのだろうし、外部から到来する邪悪なものをうまくアースできない未熟さによるものだ。そんなことはわかっている。わかってはいるのだけれど暴れ出す心をどうしても止められない。本当にもどかしい。ただこのもどかしさは、やがていつかはなんらかの達成をもたらしてくれるかけがえのない果実だと信じている。だからこのもどかしさを抱えながらに、これからも読んだり書いたり、はぐらかしたりしていこうと思う。



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ダラダラしちゃった言い訳。 [あんなことやこんなこと]

12月も10日が過ぎようとしている。それにしても時が経つのは早すぎる。この決まり文句はありきたりだけに避けようとは思うのだけど、どうしても書いてしまう。なぜ書いてしまうのかは、それほどに実感がこもっているからということでもあるし、おそらくほとんどの人が感じていることだろうと想像できるからでもある。冬休みまであと2週間。まだ来年もあるけれど年内に限れば講義もそれぞれあと2回ずつ。ラストスパートだな。

金曜日のこの時間はひとまずホッと一息つけるから、読みかけの本を読んだりして研究に時間を費やすことができる。次週の講義の準備に充てる時もあるけれど、なるべく研究をするようには努めている。でも今日のところは全く何もする気が起こらず、本を読んでいてもただ言葉をなぞらえているだけで一向に内容が沁み込んでこなかった。やや疲れておるなと感じながらも「でもやらんとアカンやろ」と自らをけしかけてはみたが、案の定、能率は上がらずに余計に疲れを上乗せする始末。仕事の合間に時間をみつけてできることとできないことがあるのだなと、つくづく思う。思考スピードが遅いボクだからってことは多分にあるだろうけれど。

夏休み中から読み進めているのが『善の研究』。その中に出てくる「純粋経験」という概念を何とか理解したい。ラグビー選手をはじめとするスポーツ選手が動きの中で感じている主観を、この概念で説明できるかもしれない。そう直感したものだから、一文一文を噛みくだくようにして読んではいるものの、そう簡単には腑に落ちてはくれない。なんとなーく言わんとしていることはわかるんだけれどもね。ノートを広げて図で表してみたり、それを見返しては本当にこれでいいのかなと頭を抱えてみたり。まあこうしたことを続けていく中でだんだん腑に落ちてくれるんと違うかなあと思ってたりもする。だから気長にいこうと自分をなだめすかしてたりもする。

「あーでもない、こーでもない」と考えるのは体力がいる。ただ頭を使うだけだろうと思いきやそうではなくて、体力がいるのだ。身体の力。疲れがたまっているときには思考が上滑りするような感覚に陥り、全くといっていいほど考えられなくなる。あのときの回転の鈍さはなんとも形容しがたいほどにどんよりしていて、イライラしてしまうんだなあ。とか言いながらそんなときほど
ムキになって考えてしまったりもするんだけどね。そううまくはいかないものです

というわけで今日はほとんど集中できませんでした。
という言い訳を今日のボクは書きたかったのでした。


 
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「つけるものか、つくものか」身体観測第108回目。 [『身体観測』]

 スポーツが上手くなるためには筋力トレーニングが不可欠である。この考え方が社会全体に広がりつつある。端的に運動能力を上げるには筋肉をつければよいという考えが私たちの意識に根を張りつつある。

 筋肉はつけるものか、つくものか。「身体」の研究を始めてからずっと考え続けている問いだ。意図的につけるものか、それとも自然につくものか。「つくもの」であるという結論に達しながらも、まだ絶対的な確信をもてないでいるのがもどかしい。

 建築現場で資材を運び、高所を軽々と移動する人たちの運動能力は高い。そばを通りかかれば思わず見とれてしまうほどに軽やかだ。タンスなどの重い家具を手際よく楽々と運ぶ引っ越し屋の人たちの動きも然り。当然のようにあの人たちは筋トレなどしてはいない。スポーツ選手ほどムキムキではなく、むしろ細身に映るその身体は動きの中で自然に培われたものだ。

 かの長島茂雄や王貞治は徹底的にバットを振り抜くことであれだけの実績を残したと言われている。スポーツ科学に基づく筋トレをせずとも、後世にまで語り継がれるほどの華麗な動きを披露し、未だ破られていない通算本塁打868本という記録を残したという事実がすべてを物語っていよう。筋肉はあくまでも動きを通じて身についていく。これを疑う余地はない。

 身近なところからアスリートの世界まで、少し見渡すだけでも筋トレの必要性に懐疑的なまなざしを向けることは簡単である。にもかかわらず「不要である」とはっきり断定できないのは、僕自身が筋トレ経験者だからである。華奢だった僕がラグビー選手としてやってこられたのは筋トレのおかげかもしれないという後ろめたさ。これがまだ払拭できない。だからしばらくはこうした揺らぎのうちに、スポーツ界を席巻する筋肉偏重主義に物申していくつもりだ。

<10/11/30毎日新聞掲載分>


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「あっち」と「こっち」は地続きだった。 [あんなことやこんなこと]

懐かしのチームメイトから電話があり結婚の報告を受ける。来年5月に式を挙げるらしい。後輩だからまたもや追い抜かれたことになるが、これまでにもたくさんの後輩に抜かれているからそれほど気に留めることもない。学生の頃から顔見知りで、敵味方に分かれたこともあり、少しだけ同じチームでプレイしたその後輩とは、グラウンド以外でもよく語り合った。ホントにおめでとう。ぜひとも出席させてもらいます。

というわけで気がつけばもう35歳である。35歳という年齢に驚くというよりも、現役を引退してから4年が過ぎようとしていることに驚く。もう4年も経ったという印象と、まだ4年しかたっていないという印象がごちゃまぜだ。脳震盪の後遺症で視界が歪み始めたのが6年前。そこから向こう(過去)とこっち(~現在)ではボクという人間は大きく異なっているように思われる。「向こうとこっち」という表現にも現れている通り、6年前より昔は今のボクの意識の中では「向こう側」なのである。こっちでなくあっち。

その「向こう側」を懐かしく思い返す時もあって、その時の実感としては「思えば遠くに来たもんだ」である。今のところ6年前の時点でボクという人間は断裂している。という言い方はちょっとキツイ表現になるので言い直すと、違う人生が始まったということだ。ありていに言えばセカンドキャリアの始まり始まり。それからここでは書けないようなちょっとした出来事もひとつふたつあって、明らかにそこから違う道を歩み始めた。だって、ボールを持ってトライすることができなくなったのだから。

現役を退く時がいつかは必ず来るとずっと思ってはいた。思ってはいたものの、いざ踏み出してみたらなかなかどうして。それまでは力強く直線的に歩けばよかったけれど、新しい道は踏ん張らずしなやかに、ときに寄り道もしながら歩かなければならないときた。想像力が足りなかったんだろうねえ、この違いにはホントびっくりしちまった。今もその驚きは尾を引いている。能天気だったこともあるんだろうねえ、「まあなんとかなるか」、本気でそう思っていた。

なんてことをこれまでにもつらつらと書いてきたけれど、その意味がようやくわかった。ボクはここでこうしてクヨクヨした想いを書き連ねることでとにかく今までやってこれたんだよなあってことが。書く=語る=客観視、つまり言葉にすることで苦しみや迷いを自分から切り離してきたんだよな。それこそ読み返せば恥ずかしくて消去したくなる内容もあったけれど、なぜか消去せずに残しておかないとアカンよなって思った。個人のブログだし、読み苦しいものであれば必然的に誰も訪れなくなるだろうから、そこまで配慮しなくてもええかという開き直りもあったが、今となっては残しておいてよかったと思う。

ボクのカッコ悪い部分がブログとして残っている、つまりこれからどれだけカッコつけてもカッコはつかないっていうことだ。そう腹を括ることができたらどれだけ楽になるだろう。目指すべきところが間接的に把握できるという意味において、書き残してきて本当によかったと思う。もちろんすぐに腹が括れるとは思っちゃいない。そう簡単には問屋が卸さないのはわかっている。まだまだ時間はかかるだろうが、それでも目指すべき境地として具体的にそれがあって、動かしようのない現実としてブログがある。もう逃げようがない。諦めるしかない。なるほどね、こうした意味合いもブログにはあるんだな。ここまで書いてきて気が付いた。

過去を振り返った時に「思えば遠くに来たもんだ」という実感があると先に書いた。この実感には「この先どこぞへいくんだろ」という期待が付随している。だってあの時の自分、病を患い二進も三進も行かなかったあのときの自分が今の自分を想像し得たかというと、とんでもない。まったくの想定外だった。ということはだ、これから先もそうなる可能性は高いとみて間違いない。ホントにどこぞへいくのやら。

ただね、ここんところずっと感じているのは「あっち」と「こっち」は地続きなんだなあということ。考えてみれば当たり前のことなんだけど、今までのボクはそうは思えなかったんだなあ。「あっち」はあっち、「こっち」はこっちという意識が知らず知らずのうちに芽生えていた。とにかく「あっち」にはもう戻れないのだからそこに頼ることはやめて、また一から「こっち」でやらなければならないという風に、自分で自分をけしかけていた気がする。だからね、背伸びをしすぎて思考がこんがらがって生き方がぐらぐらしたり、自らの置かれている環境への感謝の気持ちが薄らいだり、なんだかグチャグチャになっていたんだなあ。できることしかできないのに、ね。いつかのツイッターで等身大云々とつぶやいていたのはまさにこうしたことをグルグル考えていたからなんです。

他の現役を引退したスポーツ選手はどんな心境で日々を過ごしているんだろう。それが最近のボクが知りたいことの一つです。ボクみたいにウジウジしている人はいないのかなあ。蛇行続きの歩みでここまできたけれど、やっぱり自分が一番輝いていたであろうあの頃は懐かしく誇らしい。あの頃に戻りたいとは決して思わないけれど、そう思う。

あー、ようやくこの一言が言えた。ちょっとすっきり。






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