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「歓声の後押し」身体観測第122回目。 [『身体観測』]

 スポーツ指導は本当に難しい。マニュアル的な指導は空回りするし、選手時代の経験を無理強いすれば選手との間に溝ができる。おそらくはこのどちらにも偏ることのない指導が理想なのだろう。各スポーツで活躍されている指導者を参考にしつつ自らの経験を一つ一つ掘り下げているのだがなかなかうまくはゆかない。

 基本技術はそうでもないが、パスがうまくつながるために必要な選手間の連携を教えるのはとても難しい。そこには「状況判断」が絡んでくるからである。刻々と変化する状況で適切なプレーを選択するには、味方同士で一つの判断を共有することが求められる。僕はパスだと思ったがあいつはキックで、もう一人はランだと判断した時点でチームプレイは成立しない。個々の状況判断における正否の振れ幅を少なくしなければ選手間の連携は成り立たないのである。せめてチャンスかそうでないかは感知しておきたい。

 いかにして正確に状況を判断できるのか。現役時代を振り返って気づいたことがある。歓声である。パスを受けた瞬間の、歓声を含む競技場のざわめき具合が状況を判断する一つの指標になっていた。競技場全体がうねるような歓声は大チャンスの証拠。だから思い切って勝負をかける。そうでなければより安全なプレーを選択していずれ到来するチャンスを待つ。俯瞰的にグラウンドを見下ろす観客の、期待と落胆が入り交じった歓声が的確な状況判断に一役買っていたのである。

 もちろんこれは無意識的なものである。明確に意識していたわけではなく、あくまでも直感に過ぎない。だからこそ実感が伴った確実な経験として僕の身体に刻印されていた。状況を的確に判断する能力は個々の資質だけに由来するものではなく、味方はもちろん敵や観客を含めた全体で育まれるもの。なるほど、教えるのが難しいはずである。


<2011/06/21毎日新聞掲載分>



 


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教えることと学ぶこと。 [あんなことやこんなこと]

実習校訪問でてんやわんやの1週間が終わろうとしている。なにぶん初めての経験だったものだから、その場その場でどう振る舞ってよいのかにいちいち意識がからんできて、大変だった。学校によっては「平尾先生ってラグビーされてたんですよね?」と切り込まれ、どこまでをどのように開いたらよいのかに慌てふためいたりもした。誠二さんと混同されていないかの確認は、もうお手のものなのだけれども。

初対面の方とお話しすることがこんなにも苦手だったなんて、改めて感じた1週間でした。しかしながら教育現場で奮闘されている中学高校の先生方の、生のお話を聴かせていただく機会というのは貴重であり、また学校というところが醸し出すあの独特の雰囲気を感じることで思いもよらない昔の記憶がよみがえったりもして、新しい発見もあった。教科書がやたらとカラフルになっていて、文字よりも絵の割合が多いんちゃうかと思ったこともそう。ボクらの時はもっと文字だらけで、ほとんど白黒に近かったのではないかと記憶しているのだけど、どうなんだろう。聖徳太子や豊臣秀吉の顔に落書きしたのははっきり覚えているんだけど。

概ね学生たちは一所懸命に実習に取り組んでる様子だった。いくつかは研究授業も見させていただき、いつもと違う表情で生徒の前に立つ姿からは成長の跡がうかがえて思わず表情が緩んでしまうこともあった。ハンドタオルで絶えず汗を拭きながら授業をする学生もいて、汗かきのボクとしては共感せざるをえず、と同時に「焦ってんねやろうなあ」と心配したりもした。

学校というのはもうそれだけで独特の雰囲気があって、先ほども書いたけれどいつかの自分が味わってきた空気や匂いが思い出されて甘酸っぱい心境になる。母校でもないから全く知らないはずなのに、「先生」に見つめられるとどこか後ろめたさを感じてしまうのは、紛れもなくボクが学校から学んだことと関係しているのだと思う。とにかく「先生はえらい」のである、という教えはどれだけボクをふくよかにしてくれたのかと、改めてそう感じたのである。

ボクの立場から言うべきことではないのかもしれないけれど、やっぱり「先生はえらい」のです。先生への敬意があって初めて学べることがある。だから先生への敬意がなければ「それ」は学べない。そして先生への敬意があって初めて学べる「それ」は、生きていく上ではとてもとても大切な内容であり、はっきりと言葉で言い表せないことでもあり、目に見えないことでもある。

この点で「教える―学ぶ」の関係性は、まず「学ぶ」があって初めて築かれると考えられる。だがしかし、「学ぶ」姿勢を作るまで教師たるものは手をこまねいて見ていてはダメで、まるで「学ぶ」姿勢をもたない子どもたちを前にして「教えよう」とおせっかいをやかなくては何も始まらない。だとすればこの関係性は「教える」から築かれるとも考えられ、さっそく先ほどの言い分が否定されるわけなのだが、ここらあたりを腰を据えて考えてみると、えてして教育というものはどっちが先とはいうものではないのであろうという結論に落ち着く。何かを学んだり何かを教えたり、つまり「教えるー学ぶ」の関係性というのは何かのはずみで成立するものであって、だからそのはずみがいかにして生まれるのかについて考え続けなくてはならないのだろう。

だからこそ「先生はえらいものなのだ」という信憑は崩してはならない。学ぶ側も教える側も、この信憑を守るべく適切に振る舞うことが求められるのだと思う。それは具体的には生徒や学生は先生を信頼し、先生はその信頼に足るべく努力を継続するということ。すなわち先生の立場としてのボクができること、それはボク自身が学び続けることだ。信頼に足る人物になる、という言い回しはどこか窮屈で実感に乏しい印象が拭えないのだけど、「学び続ける」ことなら前向きに楽しんでできそうな気がするのはボクだけだろうか。

教える立場にいる人間は絶えず学び続けなければならない。

これまでに幾度も反芻してきた言葉も、こうして書いてみるとまた違った味わいで心に沁みるから不思議である。当たり前に当たり前なことほどこうして言葉にすることが必要だ。ということもまた当たり前のことだから、どうにもまたややこしい。本当に大切なことはいつもややこしい。これだけは至ってシンプルなんだけど。





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「ケガから始まる」身体観測第121回目。 [『身体観測』]

 ケガをしたことがきっかけで僕は現役を引退した。ある日の練習で軽く相手とぶつかった直後、ふと顔を上げると右斜め前方に立っている選手が二人に見える。心なしか視界がぼやけていてふらつく感じもする。たとえるなら水族館で分厚いガラス越しに魚を見たときのような感覚で、遠近感が覚束ない。まるで絵の具をべた塗りしたよう景色が目の前に広がっていた。


 コンタクトスポーツであるラグビーでは脳震盪は珍しいことではない。タックルした瞬間に数秒間の記憶がなくなることだってしばしばある。だからいつものようにしばらく休めば大丈夫だろうと高を括っていたのだが、今回ばかりは違った。症状が落ち着いたのを見計らって一度は練習に復帰したものの、相手とぶつかるたびに視界がぼやけるのである。


 病院も数軒回り、精密検査も受けたが、はっきりしたことは何もわからない。最終的にはこれまでに何度も繰り返した脳震盪の後遺症だろうと診断されたが、つまりは原因不明。完治までの目処が立たず、現役生活最後の2シーズンはいつ治るともわからないケガを抱えたまま過ごすことになった。


 出口の見えない状態で過ごす日々はなかなかつらいものがある。安静にしなければならない状態でいくら休んだところで心身が休まるはずもなく、否応なしに襲いかかる焦りと不安でむしろ圧迫感は増す。症状が治まりつつある実感が何もない状態にはやはり堪え難い。なんとかしなければと手足をばたつかせつつ読書に励んでいたことがふと思い出される。


 できれば思い返したくもない苦い経験なのだが、あれから数年が経った今となってはそうでもない。このケガからしか学べなかったことがあるからだ。向き合い方によってケガは選手を成長させ、自らの身体と対話を始める大きなチャンスになり得るのだと、僕は声を大にして言いたい。

 


<11/06/07毎日新聞掲載分>




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ブログとツイッターの違い。 [あんなことやこんなこと]

それにしても本当に書けなくなった。いや、書かなくなったというべきか。ブログの更新が滞っている理由の一つにツイッターがあるのは間違いない。140字以内という制限はあるものの、連続してつぶやけばそれなりの内容を書き綴ることができるわけで、ブログ並みの長文は無理にしてもある程度は思考中のあれこれがまとまってゆく。たぶん、それで満足を得ているのだろうと思われる。

「物事を考え始めるきっかけ」は突然やってくる。大学に向かう車中やベランダに出てキャンプ用のイスで微睡んでいるとき、はたまた講義後に研究室でコーヒーを啜っている最中などにふと浮かんだりする。そして知らず知らずのうちに思考に耽っていて、ハッと我に返って慌ててメモするというのがこれまでだった。それからしばらく頭の片隅に引っかけておくからあるとき無性にブログで書きたくもなるし、書きながらにまた少しだけ中身が煮詰まり考えが深まる。そうしていつも何かを考えている状態にボクはいたのだと思う。

ただ昨年にツイッターを始めてからというもの、こうした習慣が変わった。つまりメモする代わりにつぶやくようになった。物事を考え始めてすぐの状態で「少しだけ」考えられるようになったのである。この「少しだけ」をよしとするのかどうかに見解の違いはあるだろうが、少なくともこの「少しだけ」がボクをブログから遠ざけたように思う。

うん、たぶんそうだな。

そもそも今までずーっとラグビーをしてきたものだから、考えることにあまり慣れていない。いや、考えることは好きで、どうでもいいような些細なことを考え続ける癖は昔からあったが、論理的に思考することはどちらかと言えば苦手である。論理的に組み立てていっても、結論に至る少し前で「やーめたっ、このくらいにしといたろ」と考えるのを辞めてしまいがちである。たぶんこの癖はスポーツ選手に全般的に当てはまるような気がしていて、その理由は、身体実践の場での論理的思考はときにパフォーマンスを阻害する方向に働きがちだからである。

たとえば、パスの仕方やステップの際の足の運びについて、ガチガチの論理で理解していたとすれば、言葉での説明にどうしても意識が張り付いてぎこちない動きにしかならない。「相手を見てスナップを利かせながら薬指と小指で押し出すように、さらには相手の存在を気配で感じながらここぞというタイミングでパスする」という言葉での説明は、かえって動きの邪魔をする。言葉での理解、つまり論理的な思考は頭を落ち着かせるも、身体のパフォーマンスにそのまま寄与するとは限らない。

うまく動くためには頭での理解を一旦カッコに入れるか、意図的に消滅させなければならず、だから卓越したパフォーマンスを幼少のころから発揮してきたスポーツ選手は、この習慣を早い段階で身につけているものと思われる。指導者からの言葉を半ば聞き流すことでパフォーマンスが向上するわけだからそれは必然である。だから論理的に思考を組み立てていっても最後の最後で腰砕けとなるのは、スポーツ選手の特性ではないかと考えているのである。

これは、周りを見ていてもそう感じるし、ボク自身を外から眺めてみてもそう思う。まあ、思い込みに過ぎないかもしれないけれど。

最後の最後で確固たる結論を出すことをほとんど反射的に嫌がる。これはアスリートに特有の思考癖ではないかとボクは考えているのだがどうだろう(共感するとか異論があるという人は是非ともコメントを頂きたい)。

だからといって開き直るつもりもなく、ましてや卑下するわけでもない。むしろ研究者としては克服すべきものとして自覚しており、なんとか腰砕けにならないように努力しているつもりなのだが、ふと気を許したときに「このくらいでまあええか」と幕を下ろしてしまいそうになる。論理的に思考するって事は本当に難しいものである。

で、この最後の最後で「まあええか」と投げてしまう思考癖。これが見事にツイッターというメディアに合致した。最後までじっくりと考え続けなくともある程度の思考があればそれなりのことが書けてしまう。それをいいことについ100%の満足感を覚えた自分がいて、だからブログでこうしてじっくりと思考しながら書くことをしなくなったのだ(たぶん)。タイムライン上の大半の方々はツイッターというメディアの特性を理解した上で、つまり140字以内(×数回分)で表現できる事象と、そうではなくじっくりと思考しなければならない事象を弁えておられるから問題ないにしても、ボクにとっては小さくない問題だったのだろう。

論理的に思考することの訓練を受けたこともなく(いや、大学に通っていたのだからボクにその気がまったくなかっただけなのだが)、絶えずグラウンド上でのパフォーマンスを最優先させてきたことの影響がここにある。だからこそラグビーでそれなりのところまでやれたのだし、その部分を否定するわけではないのだが、ただこれまでそうしてきたからこれから先も同じように振る舞うことだけはしたくない。というか、それではすべてのことが立ち行かないわけで、これまでの経験を言語化していくにあたってはきちんと論理的に思考することを癖づけなければならないと思う。

だからブログは書かなくてはならない。というように結論づければお堅い義務感まみれになってしまいそうだが、決してそんなことはなく、やはり書くってことは楽しくてとてもスリリングである。夢中になって書き上げた文章をあとから読み返してみると、そこには思ってもみなかった自分自身を発見することも多い。へー、オレってこんなことを考えていたのかと、日常の中で感じていたモヤモヤにくっきりと輪郭が与えられてスッキリするのだ。

だからと言ってツイッターをやめるわけではない。やめるわけではないけれど、その特性を理解した上でお付き合いしていかないといけないなあと改めて感じている。ツイッター的な思考とブログ的な思考は、意識の射程と掘り下げる深度が違い、元スポーツ選手としてのボク自身の思考癖はツイッターというメディアにものの見事に合致する傾向にある。

ツイッター上で済ませてしまえる内容とブログでしか深められない内容。この違いに想像を及ぼしつつ、また改めて書くことと思考することに向き合ってみたいと思う。


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「矛盾を抱えるラグビー」身体観測第120回目。 [『身体観測』]

 現役を退いてからというもの選手への名残惜しさを抱えながらラグビーについて考え続けているのだが、考えれば考えるほどに不思議なスポーツだなと思う。押しつけがましいかもしれないが、ラグビーに育てられた身としてはラグビーの魅力をたくさんの人に伝えたいと願っていて、だからできる限りわかりやすい言葉で語るように心がけている。しかし、事はそう簡単には運ばず、その本質を理解すべくルールやプレーをひとつひとつ掘り下げていけばいくほど複雑さが増していくから困っている。


 たとえば「前にパスを投げてはいけない」というルール。相手陣地の最奥地にボールをグラウンディングすれば得点が入るラグビーは、言ってみれば陣取りゲームである。防御側は相手の前進を阻み、スキあらばボールを奪い返そうと襲いかかってくる。それをかいくぐって得点につなげるためにはパスが有効手段となる。にもかかわらず前方へのパスが禁じられているのである。つまり、「後ろにパスをつなぎながら前進を図る」というアクロバティックなふるまいが求められる。


 スクラムもそうである。これは敵味方それぞれ8人が身体を寄せて押し合うプレーだが、崩れてしまうと大怪我につながる恐れがあるのでまずは安全に組み合うことが最優先される。つまりまずは敵と息を合わさなければならず、安全に組み合うことができて始めて鬼気迫る押し合いが開始される。その優劣がチーム全体の士気を左右するほど重要なプレーであるスクラム。そのスクラムに求められるのが協調と競合という相反する所作なのである。


 ラグビーにおける最も象徴的なルールとプレーそれぞれに矛盾的要素が内包されていることは注目に値する。ただしこれをわかりやすく伝えるのは相当に骨が折れる。一先ずはこのいじらしさが魅力なのだと言っておくことにしよう。


<11/05/31毎日新聞掲載分>





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