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アタマとカラダ、哲学と反哲学。 [身体にまつわるお話]

あの大きな台風が過ぎ去ってからというもの、季節はすっかり秋になった。頬を撫でる風や西日のかたむき具合、それから思わず見とれてしまう夕焼けも、すべてが秋めいた。ここからここまでが夏でこの先が秋、という境界線などあるはずもないのに、僕たちは秋になったということが感覚的にわかる。だから、大学内ですれ違う教職員さんへの、ここ数日の挨拶は「すっかり秋になりましたねー」。それだけでわかり合える何かがある。


秋といえばラグビーシーズンの始まり。だいたい9月から翌年の2月あたりまでがシーズンで、だからこの時期になるといやが上にも気分が昂ってくる。秋の匂い、そう、粘りつく夏とは異なるカラッとした空気の感じが、僕の身体にスイッチを入れる。現役を引退したことはアタマではわかってはいるものの、カラダはまだわかっていない。「わかっていない」のではなく、十数年をかけて擦り込まれた体感を律儀に繰り返しているのだと思う。じっくり時間をかけて染み込んでゆき、やがてその身になるとなかなか抜けなくなる。とても惰性が強い。それに比べてアタマは割と切り替えが早く、節操がない。ときに暴走をするのもまたアタマで、カラダの制御を振り切ることもあるから怖いといえば怖い。その点、カラダは暴走しない。お腹が減れば動けなくなるし、限界を超えれば怪我をするか病になる。


切れ者だがちょっとお調子者のアタマと、律儀であまり急な変化を好まないカラダ。厳密にいえばアタマもカラダの一部だから、こんなふうにはっきりと区別することはできないのだが、ついこう考えてしまう。アタマとカラダ。理論と実践。アタマをココロに言い換えれば、デカルト以来の「心身二元論」になる。


「哲学とは欧米人だけの思考法である」


と、木田元の『反哲学入門』に書いてある。なるほどと膝を打った。デカルトもカントもショーペンハウエルも、もっと遡ってソクラテスもプラトンも、それからハイデガーもニーチェも、当たり前だがみんな欧米人だ。アタマとカラダを分けて考える「心身二元論」も、長らくの年月を経て欧米人が練り上げてきたひとつの考え方に過ぎない。仏教による教えのひとつに「心身一如」があるが、近代を迎えるまでの私たち日本人にとってはむしろこちらの考え方に馴染みがある。


いや、「私たち」とするのは少し乱暴に過ぎるかもしれない。近代科学がこれほどまでに浸透した現代社会では、アタマ(ココロ)とカラダは別物だと認識している人は多い。少なくとも僕の中では、アタマとカラダは切り離せないものとしてあるということだ。


アタマとココロを同一のものとして考えるのが無理筋なことはわかっている。だが、大きな枠組みでこの問題を捉えるとき、すなわちカラダに対する反対概念を思い浮かべるときに、僕はアタマとココロにそう大きな違いを見出すことができない。「カラダ=無意識」だとすれば、「アタマ・ココロ=意識」となるわけで、ここはシンプルに考えたい。そうでなければいざカラダを使う段になると途端に動けなくなる。


アタマでいくら考えたところでカラダは動かない。だが、アタマで考えないことにはより洗錬された動きの獲得はあり得ない。このあわいを右往左往することで身体なるものは練られてゆくのだと思う。


木田元は「ニーチェ以前と以後を、同じ哲学史に一線に並べるのは、おかしい」といっている。ニーチェは、プラトン以降の哲学全般の批判し、克服しようとした。いってみれば「反哲学」であるという。つまり、科学的な世界観への危機感から出発して、その思想を形成したのがニーチェであり、これは19世紀末の芸術家たちが感じ表現した危機感と共通する。


これを僕なりにまとめてみると「アタマでゴチャゴチャ考え過ぎたらアカン」ということになる。論理的だとか普遍的であることよりも、感性や意志や意欲というもっと大切なことがあるやないかという警鐘をニーチェは鳴らした。だとすればいつの時代のどの人も、真に「哲学」を志す人は考えることは同じだ。「同じ」が言い過ぎなら「似通っている」とでもしておこうか。アタマ、すなわち「考える」が行き過ぎないように、当の哲学が警鐘を鳴らしているとは驚くしかない。


まだ頭の中でまとまっておらず、ただ殴り書きのようになってしまったが、『反哲学入門』を読みつつしばらくこの問題を考え続けてみたいと思う。あれほど複雑に思えた思想史も、ゆっくり読み解けばその相貌をひとつひとつ見せ始めるのかもしれない。


さてと、今日のところは飲みにゆくとするか。
と、僕のカラダは訴えかけている。

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