「話す」への向き合い方。 [身体にまつわるお話]
目まぐるしい日々を過ごしているうちに2月も終わろうとしている。1月は入試と試験、さらには2月の第2週に予定されているスキー実習の準備で忙殺されるのは毎年のこと。「採点の祭典」を乗り越え、スキー実習も大きなケガ人が出ることもなく無事に終えることができて、本当にホッとしている。ふう。これで今週末に控えている浜松での講演に集中することができるというものだ。
その講演のお題は「スポーツが子どもたちにもたらすもの」。結果が重視されるプロスポーツではない「子どもにとってのスポーツ」という観点から、自らの競技経験を踏まえてあれこれと話をしようと思っている。これまでに何度も言っているが「生きる力を伸ばすスポーツのあり方」について話そうと思う。主な内容としては、スポーツ科学の暴走、数値主義の弊害、暴力や恫喝による指導が及ぼす影響、運動指導の適切なあり方、言葉と感覚の関係性などになるだろう。話の筋道だけは立てておいて、あとは思いつくままに話ができたらと思う。もちろん準備は入念にするつもりだ。
ただし直前になればいったんそれを忘れるように努める。これは現役時代に試合に臨む姿勢とまったく同じ。「すべて覚えてすっかり忘れる」。たとえ大切な情報であっても敢えて意識の奥底に沈めてしまうからこそ、咄嗟の判断が必要とされる場面で勝手に身体が動くのである。「ここはキックで攻めてくるはず」という直感は不意に浮かぶもの。いくつかの選択肢の中から恣意的に選び出すような仕方では浮かばない。意識の奥深くに沈殿している様々な情報の中からその場に適切な一つを選び出すのは無意識の仕事なのだ。
学生への講義や講演などを行うようになって思うのは、「話す」もまた身体を使うことに他ならないのだということ。場の雰囲気を察知し、それに応じて話題を変え、話すテンポを気遣いながら喩え話やエピソードをあいだに挟みつつ、話をする。聴き手に深く染み込むように話すには、ただ頭を整理して口を動かしておけばよいと思ったら大間違いである。「話す」ことは五感を研ぎすませて身体全体を使うことを要請する。そう解釈しているボクは、だからラグビーの試合に臨むかのように講演や講義に接しようと心がけているのである。
わかっている。こうした話し方はあくまでも理想的に過ぎるわけであって今のボクには到底うまくできないことは百も承知しているつもりだ。話の筋が次につながらなくて同じ話を繰り返したり、その焦りを抑えきれずに暗記しておいたトピックを書き言葉のままに話してしまったりすることは、しょっちゅうある。それこそパワーポイントを使って順序よく話せばそれなりに滑らかな講演になることはわかっているのだが、でもそうはしたくないのだ。体裁を整えるくらいなら今まさに自分が考えていることを話したい。訥々と話すことを手放したくない。うまく話せなくて講演後に落ち込むことはあっても、ね。もちろんそれなりの結果は出すつもり。いや、出してやる。がるる。
と意気込みつつも実のところ腹の中は不安でいっぱいだったりする。しかしここはボクにとって一つの挑戦なのだな。この不安を解消すべく入念に準備を行うことでしか乗り越えられない壁がある。たぶんこの壁の向こう側はにぎやかで楽しそうなそんな気がするから、これからもそこを目指してジタバタしようと思う。それにしても「話す」ことは難しい。だからこそ相手に伝わったと感じられる瞬間は何ものにも代え難いほどの高揚感が得られる。難しいけど楽しい。難しいから楽しい、だな。さてと。
嫉妬されるのはモテてるってことで。 [身体にまつわるお話]
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身体への意識は、ひとたび不調になった途端に急激に高まる。筋肉痛とか発熱による節々のぎこちなさとか頭痛とかが襲っているときは、いやが上にも身体に縛り付けられる。これはもしかすると、あまりに放置されたが故の、身体からの嫉妬なのかもしれない。もっと興味を持ってよ、というね。
もし、体調が特に不調でもないときに自らの身体を意識する契機が瞑想なのだとしたら、定期的に胡座をかいて目を瞑って心を落ち着けておけば、身体に嫉妬されたりはしないってことになる。心身の状態を安定させる、身体を大切にするっていうのはこういうことなのかもしれないなあ。
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数日前のツイッターでボクはこんなことをつぶやいていた。今日はこの「身体からの嫉妬」について、もうちょっと踏み込んで書いてみようと思う。
身体というのは考えれば考えるほどに不思議である。自分のもの、というか自分そのもののはずなのに、うまく制御できなかったり、ほとんど同じようなサイクルで生活しているにもかかわらず体調が良くなったり悪くなったりする。心臓とか胃とか肝臓とかがこの身体の中にあって、それぞれが活発に働いてくれているからこそボクたちは生きていられるわけだが、自分自身のそれらを直に見ることはできない。いや、他人のものを見る機会にもおそらくそんなには恵まれないだろう。医学の発展によって心臓や胃や肝臓という専門用語がふだんの生活の中で使われるようになって久しいが、ボクたちは見たこともない自分の一部である臓器についてあたかも周知の事実のようにして語っている。休肝日は肝臓を休ませる日という意味である。もの言わぬはずの肝臓を休ませるのはその機能がよく周知されていることの裏返しであり、「そこにあるはず」というだけでこれだけ手厚く扱っている事実は、よくよく考えてみれば滑稽な話だ。
もの言わぬ臓器としての肝臓がそうなように、ボクたちはまったくもって健康な時は自らの身体を意識することはほぼない。たとえば胃腸は、調子が悪くなって痛みが生じたり、グルグルと活動を活発にした時にその存在感を露呈する。空腹を感じた時や食べ過ぎた時にも存在感を増すが、それは身体からの欲求という解釈であって、胃腸そのものへの意識ではない。
この身体の中に胃腸があるのだな、胃腸以外の内臓もこの中にはたっぷりあるんだよな、と自らの腹部あたりにまなざしを向けていると、いやな重苦しさはあれども(今、体調が悪いからね)無性に愛おしくなってくる。おお、オレの身体よ、と思う。
そんな身体だけど、普段はてんで放ったらかしである。「便りのないことが無事の証拠」ではないが、そもそも健康とはどういう状態かをじっくり考えてみたらわかる通り、意識の上で何も感じていない状態がまさしく健康である。痛くも痒くもなく、ほぼこちらの思惑通りに手足が動く状態が健康といっても差し支えないだろう。だから身体は、その存在感を四方八方にまき散らすことなく、ただそっと傍らにあるという表現がぴったりくる。
「へえそこにいたのか、あんたは」と、まるでいなかったように扱われることに身体は慣れている。でも慣れているとはいっても時にはかまってほしいのが人情というものだろう(身体に人情はあるのか?)。
「ちょっと言っていいですか、あんたがあくせく働いて、おいしいもんを食べて酒も飲んで、そうして日がな楽しく生活できてるのもね、もとはと言えばあっしがいるからなんですよ、そこんとこ忘れてもらっちゃあ、困るなあ」と、ときどき嫉妬心を抱く。それが風邪などの体調不良として自覚される。
放ったらかしにしてたら、してた分だけ仲直りするのにも時間がかかるから、まるで恋人みたいなものだ。そんなときは素直に「すんませんでした、以後は気をつけます」とおとなしく機嫌が治まるのを待つしかないのである。言い訳すればするだけこじれるのは目に見えているから、もちろんしない。この辺もまったく恋人と一緒である。
てなことを妄想するくらいにしんどい今回のボクの体調不良だが、なぜこうなったのかを思い返してみると、身体をわかったつもりになっていたことに起因するんだろうなと漠然と思っている。だが、断定はしない。断定してしまえば、また「あんたは全然わかっていない」とまた強烈な症状が襲うような気がするからである。今後ともこの嫉妬深い自らの身体とは、じっくりと腰を据えて付き合っていく所存である。
なんのこっちゃ。
磨き上げる、研ぎすます。 [身体にまつわるお話]
こんなことも知らずによくも今まで“のほほん”と過ごしてこられたな、と思うことがたまにある。真実なることを知ってしまったが故に、これまでの自分が恥ずかしく感じられる。あのときはよくも偉そうに断定できたものだなと、全身からいやーな汗が出てきてがっくりする。胃のあたりにぽっかり空洞ができたような、なんとも言いようのない焦燥が襲って、項垂れる。
端的に言えば「落ち込む」ってことなのだけれど、でもこの落ち込みは決してネガティブな性質のものではなく、むしろ歓迎すべきひとつの経験だと思う。なぜなら「今まで気付いていなかったことに気付くことができた」ということで、つまりは「無知の知」の経験だからである。実感としては、これまで築いてきた自信が崩れ落ちるかのような無力感が付随することもある。でもこの無力感をしっかり抱え込んでまた次の一歩を踏み出すからこそ、人というのは本質的に変化していくのである(「成長」には“右肩上がり”のニュアンスが伴うので「本質的な変化」とした)。
それを知ってしまったことで、これまでの常識を書き換えなければうまく辻褄が合わなくなる知識や知恵。まさにそれらを目の当たりにした瞬間は、言葉に詰まり、ためらってしまう。常識を書き換えなければならないことは薄々わかってはいるのだが、ただ同時にその作業にはそれなりの知的負荷がかかることもわかっているから、そこでは葛藤が起きる。「はい、そうですか」と簡単に書き換えられるわけがないのだ。過去にそれなりの成功体験を持つのであればなおさらそうなる。その成功体験の範疇で解釈してしまうこと、それはまさに「既知への還元」であり、その態度で接する限り私たちは決して「他者」に出会うことはできない。
「初めて目にし、耳にしたこと」に触れた、まさにその時に瞬間的に下されるべき判断は身体的でないといけない。その瞬間に、もしも頭で理論的に落とし込もうと躍起になっている自分がいたとすれば、その振る舞い方がすでに恣意的である。つまり身体が「否」と判断したとみて差し支えない。逆に、見たり、聴いたり、読んだり、触れたりしたその瞬間に、身体中の細胞が一斉に活動を活発にするような感覚を覚えれば、それがすでに答えなのである。なぜそれに打ち震えたのかの論理的な理由はあとから理論づけられる。まず身体的な判断があって、その次に論理的な理由がくる。
突き詰めれば身体を鍛えることの目的とは、瞬間的な判断を下さなければならない日常のあらゆる場面で適切に振る舞える身体になるってことだ。闇雲に鍛えるのではなく、磨き上げる、研ぎすます、といった感じだろうか。実践的には、数値上でただ負荷をかけるのではなく、身体の内側から発せられる様々な「ノイズ」をひとつひとつ解釈していく、という仕方になるだろう。そうすることで、結果的には「他者」とも出会うことができ、自らの無知を突きつけられた時でもむやみやたらに落ち込まなくてもよくなる身体になるのだと思う。ただ、この「ノイズ」を解釈する仕方にたどり着くまでには、端的に負荷をかけ続ける過程も必要だろうとは思う。「いかにして力を抜くか」を考えるためには、目一杯に力を込めた経験が必要なように。
やや独りよがりな文章に終始したことをお許し願いたい。今日はそんな気分だったのである。書いたことによってモヤモヤしていたことの幾分かは整理が着いたので、そろそろ昼ご飯を食べよう。その後は『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか?』の続きを読むことにする。
身体をモニターするってこと。 [身体にまつわるお話]
一通り成績をつけ終えてホッと一息ついています。今期からWEB上で成績を提出することになったので、出席と点数をせっせとパソコンに打ち込んでいたのでした。出席率とか一目でわかるし確かに便利になったはずなんだけれど、どこか味気ない感じがついて回るのは否めません。ボクという人間はとことんアナログなんでしょうね。便利になり過ぎることに不安を感じるボクは、電子化の流れに対してはたぶんこれからもずっとブツブツ言い続けるでしょう。講義でもパワーポイントは使わないって決めてるのは、生身の人間からしか伝えられないことってあるよね、それをちょっと大事にしてみようやないかと思い立ってのこと。話し方も講義内容も拙いのは百も承知だけれど、それでも挑戦し続けないことにはできないわけですよね。話をすることを鍛練する。ラグビーと一緒です。だから「使えない」のではなくて「使わない」のです。そこんところ、お見知りおきいただければ幸いかと存じます(って誰への言い訳をしてるんやろか)。
前回の身体観測では準備運動の必要性について書いてみた。現役時代のあるときにコンビニへと向かう道すがら、点滅を始めた信号を渡ろうとして走り出したときのぎこちなさと、渡り終えてからの妙な違和感からちょっと考察してみたわけだが、意外にもたくさんの人たちからの反響があってびっくりした。かつてのチームメイトからメールがあって「僕もそう思ってた」という感想をもらい、こんな身近にも感じていたヤツがいたのかとさらに驚いた。
日本では体育の授業の中で準備運動の必要性が説かれており、何の疑いもなく必要なものだと思い込んでいる人がほとんどの中で、その必要性を疑うことはなかなか困難だろうと思う。でも、ちょっとだけ頭を使って考えてみればその必要性を疑うことは、そんなにも難しくないことに思い当たるはずなのだ。
スポーツをするにしろしないにしろ、人間としての理想の身体とは「周囲からの刺激に対して瞬時に動ける身体」である。通りすがりにいきなりナイフで切りかかってきたときに、「ちょっと待って、ストレッチするから」とは言えない。当たり前ですね。その理想の身体を目指すにはいついかなるときにもすぐに動けるような「準備」を整えておかなければならない。でもこの「準備」は準備運動をすることではなく、「特別な準備をせずとも動ける身体にしておく」ということになる。だから、ちょっとややこしいのだけれど“準備をしないこと”が「準備」なのだ。つまり、準備運動に頼らないようにすることが、意識の置きどころとなる。
このロジックはわかっていただけるかと思う。
だからボクは受け持つ実技『ラグビー』では準備体操をしない。敢えてしないでおいて、「あと10分後に試合を始める」とだけ伝え、その様子を眺めている。すると学生たちは当然のことながらきちんと準備体操をしたりはしない。数人でパスを始めたり、来たる試合に向けてサインプレーを試したりしている。中には、ポケットに手を突っ込んだまま何もしようとしない学生もいるが、そういった学生にはボールをパスしたりして「とにかく動けよー」と発破をかける。決してストレッチを促したりはしない。たとえば寒さで身体が固まりこわばっていたとすれば、そのこわばりを自覚して動ける範囲で動けばよいし、徐々に身体が温まってきたなと思えばギアチェンジをして走るペースを上げればよい。ふくらはぎに違和感を覚えるのであればアキレス腱を伸ばすあのストレッチを自らの意志ですればよい。
つまり、自分の身体がどういった状態なのかをモニターすればいいのである。動けそうならその程度に応じて動けばいいし、まだ動けなさそうならばそろりと動き出せばよい。そうして自分の身体をモニターする習慣をつける方が、準備運動でインスタントに動ける身体にするよりもよほど教育的な効果があると思われる。今やストレッチの種類もたくさんあって、それを裏付ける科学的なデータも豊富にあるわけだから、頭は簡単に思い込んでしまいがち。でもそれは違う。確固たる科学的なデータに頼るってことは、ある意味においては思考停止ともいえる。生ものである身体を、その本質を損なうことなく実践につなげるためには確固たる根拠がないまま常に揺らぎ続けることが求められる。ある日はこれでうまくいったからといって、次の日に同じように行ってもうまくいかないことなんてざらにある。あーでもないこーでもないと手探りし続けない限り身体の本質はつかめないのだ。
あーでもないこーでもないと手探りすること、自分の身体をモニターすること。それはつまり、トレーナーやコーチからのアドバイスはあくまでもアドバイスにとどめておいて、自らの身体が発するノイズを受け取るべく感覚を研ぎ澄ますということです。そのノイズをシグナルに読み替える能力こそが大切なのに、準備運動はその能力を涵養する機会を奪ってしまう可能性が大いにある。ようは準備運動とのつき合い方が大切なのですね。準備運動は絶対的に必要であり、それをしないとうまくパフォーマンスできない、下手すればケガをしてしまう。こういう思い込みは、身体能力そのものを損なってしまうということです。
だからといって全くしないでいいわけではありません。当然です。身体をモニターしながら違和感を覚えた部位をほぐすべく自らの意志でストレッチをするというのは必要です。それこそが「身体をモニターする」ってことですから。人間というものは、本来は無茶な動きをしないようにできている。これ以上動けばケガをするなと感じれば無意識的にブレーキがかかるようにできているとボクは思います。だから身体の潜在能力が発揮されるような環境にいれば準備運動などいらない。のびのびとプレーできる環境ならば本当にいらないと思う。でもそうじゃない環境がある。追い込み型指導で怒鳴り散らされながらのスポーツ環境ではそうはいかない。走らないと怒鳴られる、場合によっては暴力をふるわれる。そうなれば頭が身体の制御を振り切って限界を超えさせる。だからケガをしてしまう。こう考えると、構造的には準備体操は追い込み型指導とセットかもしれません。
なんだか走り書きでここまで書いちゃいましたが、つまりボクは準備運動をそれほど重要視していないし、どちらかといえば身体にはあまりよくないと考えているということです。もちろんこれはボク自身が自らの身体をモニターした結果ですから、違う考えの方ももちろんおられるでしょうが、ボクの身体には紛れもない実感として刻まれていることだけは念を押しておきたいと思います。
バッティングセンターとムズムズ感。 [身体にまつわるお話]
2010年度秋学期の講義が終わって昼ご飯を食べたらやや脱力気味になったので、「これはいけない、頭よりもとにかく身体を動かそう」と思い立ち、デスク周辺の整理整頓に着手した。切り抜きっぱなしだった新聞のスクラップをファイリングし、積み上がった書類をいるものといらないものに分ける。いらない書類は古新聞といっしょに積み上げ、読むべき論文はまとめて鞄に放り込む。「こんなところにあったのか」とかねてから捜索願が出されていた書類が見つかってホッとしたり、「なかなかええ記事やなあ」と切り抜き放置されてたスクラップをあらためて読み耽ったり。
てな具合にしてひと仕事を終えたところで、コーヒーとドーナツで一服。デスクがすっきりしたことで心機一転したのだろう、ブログでも書くかという気持ちになった。
いきなり話は変わるのだが、そういえば昨日は家から歩いて2分のバッティングセンターに行った。研究日ということで、講義の準備をしたあとはゴルフの打ちっぱなしに行くという予定にしていたのだがなぜだか気が変わり、クラブではなくバットを握って合計175球を打った(何球か空振りしてしまったけれど)。
こんな近所にあるのだからまあ行ってみるかと年末に思い立ち、そこから2,3度足を運んでいたのだけれど、どうやら行くたびにだんだんスイングが鋭くなっているようで、昨日は140km/時の球をあまり速いとは感じなかった。ミートする回数も極端に上がり、引っ張るのはまだ無理にしても「合わせにいっての流し打ち」ができてちょっと興奮した。その瞬間、まだ小学校の頃に友だちと野球をして遊んだ記憶が思い出されて、甘酸っぱい気持ちになった。
「そうそう、こうやって打つんだよな、ボールは」という感覚が全身を駆け巡ったときに、やはりボクはスポーツが好きで、身体を動かしてないとアカンねんなあと改めて自覚した。普段バットを振らない人間がフルスイングしたせいで左親指の第2関節あたりの皮がめくれてしまい、手を洗うたびに水が沁みてズキンとするのだが、痛みよりも妙な充実感を覚えてるところがまさにスポーツバカである。バットの芯でボールを捉えた瞬間の気持ちよさはやっぱり何ものにも代えがたい。麻雀にたとえるならば「カンチャンずっぽし」な感じだろうか。違うか。
野球のバッティングだけに限らず「芯をとらえる」ことで身体が感じる心地よさはどのスポーツでも同じではないかと思う。たとえばボールを蹴るという行為にしたって、きちんと芯をとらえることができれば飛距離も伸びるし、なによりも心地よい。身体が悦んでいるのがわかる。バレーボールのアタックでもそう、バスケットボールのシュートでもボールの芯というか重みを手のひら全体で感じて打てればスーッと決まる(あえて言うまでもなくあくまでもボクの主観なのだけれど)。うまく蹴れたときやうまく打てたときの、身体の内奥で感じる心地よさはどこか共通するものがある。とにかく心地よい。
あのミートした瞬間を思い出すたびにもう一度あの気持ちよさを味わいたいと身体がムズムズしてくる。身体を動かすことがオモシロく感じられるためにはこの「ムズムズ」があってこそなんだよなと思う。あの心地よさ、気持ちよさをもう一度!というムズムズ感。このムズムズ感に突き動かされていたあの頃をとても懐かしく思い、だから今もまたムズムズしてくる。なんだかとてもエエ感じだ。
「なにか」に触れる、乱読と通読。 [身体にまつわるお話]
と、曇りがちな休日の朝にふと思いついた。
書かれてある内容を正確に記憶する。たとえば固有名詞や数字を忘れないように気をつけながら読み進めるのは、なにか大切なことを置き去りにしているような気がしてならない。講義をするための準備として、このような読み方が必要なのはよく理解している。実際には固有名詞と数字を間違わないように何度も頭に叩きこみつつ、ど忘れしたときのためにノートの端にメモ書きもしている。そもそも本を読むことの目的の大半は知識を蓄えることにあるのだから、当然といえば当然の作業であるし、この読み方がもしかすると王道なのかもしれない。
でもね、たぶんだけど、それだけじゃ不十分な気がするのだ。あらゆる本を同時並行的に読む「乱読」、細かなところを気にせず一気に読む「通読」をすることでしか理解することのできない「なにか」がある。と、ボクは思う。朧気ながらにでもそれをつかんでおかなければ、固有名詞や数字をかき集めたところで本当のところでの理解に至らない。だから講義としても不十分になる。なんというか、オウム返しをしているだけに思えて、どこか自分の話す言葉が空疎に感じられる。別にボクじゃなくてもそこらにいる誰かが話してもいいような内容になっているようで、表面がつるりとしたそんな話に学生たちはワクワクするはずもなく、お互いに徒労を感じることになる。
今さらだけど、やはり本はじっくり読み込まないといけない。
いろいろな読み方でじわりじわりと読まないといけない。と、ボクは思う。昨夜、ツイッターでも呟いたが、大学からの帰り道で車を運転している最中に、『純粋経験』(@西田幾多郎)のひとつである「意志」が、ふっと腑に落ちた。イメージがパーッと胸のあたりに広がった。頭じゃなく、胸のあたりに。うまく言葉で説明できないけれど、「なるほど、こういうことか」という納得が得られた。これもね、まずはじっくりゆっくり読んで、抜き書きして、理解はできなくても通読して、常にカバンの中に入れておいて開ける度にその存在を目にして、という一連のお付き合いがあったればこそ、得られた納得なんだろう。
ここ最近はお風呂に入りながら村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(文藝春秋)を読んでいるのだが、リラックスしながら言葉を目でなぞっているときにちょいちょい引っかかるフレーズが、ある日常の一コマで心が波打ったときにふと浮かんできたりもする。それは「判断するのではなく観察すること」だったり、「誤解の総体が本当の理解である」だったり。それはおそらく言葉の奥にある、村上春樹自身が身を焦がして考えて辿り着いた「なにか」に、ふと心が揺れるからだろう。その「なにか」に、少なくとも今のボクは助けられている。それらのフレーズに、心とカラダがほぐれるのを感じている。
だから細かなことは気にせずとにかく本を読もうと思う。おもしろそうな本を手当たり次第に、内容を覚えようと肩に力を入れることなくさらりと。そうしていろんなものを無意識の中に放り込んでおいてから、固有名詞や数字を追うことにする。固有名詞や数字をアンカーにして話を組み立てることができれば、言葉が後から後から湧いてくるあの感じをいつも体験することができるようになるんじゃないだろうか。って、そうなるにはかなり果てしない道のりが続くだろうけれど。
じわじわ染み入るあの感覚。 [身体にまつわるお話]
そういえばボクが内田先生の著書を読み始めた時もこのような感覚で頁をめくっていた。それほど本を読んでいたわけでもなく、活字慣れしていなかった当時のボクは、わかるようなわからんような不思議な感覚で読んでたことを思い出した。で、何冊も読み終えたころにはその文体に馴染み、書かれてある事がらについて「おそらくこういうことを言おうとしているに違いない」という確信を抱くようになった。西田幾多郎の『善の研究』を読みながら感じているじわじわ感は、あの時の感覚とよく似てるような気がする。つまり、ボクはこうした読み方が好きで、割と自分に合っていて、理解に時間を要するような、つまりは実経験が伴うことで腑に落ちていくような事がらについて書かれた本が好きなのだと思う。という嗜好を形成したのもまた内田先生からの本を読んだからだと思われ、この入れ子構造がまた面白いなと思う。
ということを考えていけば、中高時代の同級生と侃々諤々やった昨夜の宴のことが思い出されて、何をもって「豊かさ」とするのか?、教育の目的とするところは?(社員教育と学校教育の違い)なんてことについて、「オレはここは譲れない」とつい熱くなって皆に食いついてしまったのだが、帰りのタクシーと今朝方にあれこれと考えている最中に、普段感じていたことが次々と腑に落ちていった。まさしくピンと来たのが『街場のメディア論』に書かれている内容で、医療と教育の崩壊を招いた責任がメディアにあるというところ。企業の最前線で身を張る彼らが学校教育のことをどのように考えているのかを肌で感じて、まさしくそこにはメディアから大きな影響を受けていることが直感されたのである。
もう少し書きつづっておきたいところだけれども、このあとは教職員の方々とゴルフの打ちっぱなしに行くのでこの辺で筆をおきたいと思います。それでは今日も、書き捨て御免。
「違和感」を信じてみようと思ったとき、身体を動かしたくなった。 [身体にまつわるお話]
午前中はラクロスの練習に顔を出し、そのあと、練習を終えた学生たちがミーティングに移動した後の誰もいないグラウンドで、少し走った。40mほどの距離を20本ほど。いかに力むことなく走り終えた後も必要以上に息が切れないように、まるで現役時代の時とは正反対のことを意識しながら、走った。暑さで肌がジリジリしながらも、それでもとても心地よい感じが身体中を駆け巡る。電車に乗っている時や店から店への移動中なんかのときには憎らしいほどの発汗も、身体を目いっぱいに動かし、その後すぐにシャワーを浴びれる環境では十分すぎるほどに気持ちがよい。
走るだけでは物足りず、久しぶりにボールでも蹴ってみるかと、倉庫にあったボールに空気を入れてひたすら蹴った。頭に描くイメージよりもはるか手前で失速する。割とまともにボールを捉えたキックも現役のころに比べれば物足りない。筋力が落ち、定期的に練習しているわけでもないからこんなことは当然の帰結なのだけれど、いざそれを目の当たりに実感すればそれなりに複雑な気持ちが湧いてくる。「もっとできると思っていたけどな」というあられもない期待感が無残に砕け散ると同時に、「いやせめてここからネットに当たるくらいの距離が出るキックを取り戻そう」とこれから時間を見つけて練習しようという意欲が湧いてきた。
そういえば今日はアップシューズだったな。あの頃はいつもスパイクを履いて蹴っていたから距離が伸びなくて当然だよな。とやっぱり負けず嫌いな自分が顔を覗かせてなぜだかホッとする。
さて、そうして久しぶりにラグビー的な運動をしてから研究室に戻って携帯を見ると、他学科でお世話になりっぱなしの先生からの着信がある。かけ直して近況報告を交換したあと昼ごはんに行きましょうということになり、研究のお手伝いで来ていた大学院生と3人で近場のうどん屋さんに。人間関係のあれこれについて話をしながら、この世の中には自分が想像している以上に特徴的な人がいることを、憂いながらも面白おかしく話す。もう笑うしかない、という人がお互いの環境にいて、ホントにもう笑うしかなくて、笑い飛ばすことでしか前に進めないのだからもう笑うしかないのである。
そんなこんな話をしていて思ったのは、やはりボクはたくさんのいろんなことを心に詰め込むことはできないということだ。周囲の人たちの目に映る「ボク」を気にし過ぎるがあまりに、「えっ?」という違和感を覚えた時はまず一度心に詰め込んでからじっくり考え込んで言葉にしてきたが、これまでのこのやり方を少し変えてみようと思い立っている。なんでもかんでもその場で感じたことをすぐに言葉にするのは子供がすることだけれど、そろそろ自らが覚えた違和感を信じてみてもいいんじゃないだろうかと思うのだ。違和感を抱え込むことは論理的な思考が介在するということ。「今のボクが感じた違和感はどういう意味を持つのか?」という問いかけは、感じた瞬間の瑞々しさを著しく損なう可能性を秘める。いわゆる「考え過ぎ」につながる。「感じ」が言葉で表すことのできるものへと矮小化され、言葉というはっきりとした輪郭が与えられたそのものに自らが囚われてしまう。
心を通過させずにおく。たとえ心を通過させてもその瞬間に感じた何かを大切にする。こうした心構えでしばらく過ごしてみようと思う。こうして思い立った時期と、無償に身体を動かしたくなった時期が重なったという事実はとても興味深いなあと思っているが、このあたりのことは今は語らずにおく。なんだかよくわからないがその方がよいような気がするからだ。しばらくは身体が望むように動き、書き、読む。仕事はわんさかあれども、まあなんとかなるはずだ。
今日は春学期に行った講義のまとめをしようと思ったが気が変わった。読みかけの「街場のメディア論」を読み耽ることにする。
体重が減っているのですけど、なにか。 [身体にまつわるお話]
ただ唯一うれしいのは洗濯が楽しくなること。「もう乾いてるやん」となれば「じゃあ第2弾、これも洗濯しとこ」となって、身の回りの衣類が清潔になっていくのはとても喜ばしい。洗い立てのタオルで顔を拭けばそれだけで気分がよくなるし、一晩で汗まみれになるシーツだって寝入りに肌触りがよければ気持ちがよくなる。よく眠れるような気になる(暑くて夜中に何度か目が覚めるにしても)。
さて。
暑さか過密スケジュールか、それとも他に原因があるのかよくわからないが、体重が激減している。つい数日前、近所にある銭湯【幸福温泉】で体重計に乗ったら76kg。なんと高校3年時の体重にまで落ちている。現役自体のピークからすれば10kg減だ。スーツを着ているときには、腰ばきにならないようにベルトの位置を気にしつつ、シャツが出ないように絶えず入れ直さなければならなくなった。鏡を見れば明らかにお尻と太もものあたりがげっそりしている。体感的にもそれは感じる。実感として身体に心地よい軽さを感じているからそれほど気にはしていないが、周りの人から「痩せた?」と訊かれると少しの不安が頭をもたげてきたりもする。しっかり食べているし食欲もあるんだけど、ねえ。
去年かその前くらいから「たくさん食べないといけない」という思い込みは捨てた。もともと痩せやすい体質だったこともあり現役時代はとにかくたくさん食べることを心掛けていたので、それはやめようと決めたのである。それからは身体からの欲求である食欲に従うようにし始め、さらに腹8分目を心掛けている。とは言え禁欲的な食事をしているかと言えばそうではなく、どちらかと言えば食べたい物を食べるようにしている。朝マックもスイーツも、お菓子も肉も、食べたいと感じればバクバクと美味しく食べるし、お酒も飲みたいときはたとえ一人でも街に出かけていくが、基本的に食事は気の合う仲間と楽しく飲んで食べることにしている。何を食べるかよりも食事の場を楽しむことがボクの中では何よりも優先され、そういった意味では現役時代に比べればなんとも自由で、言葉を換えればいい加減に食べていると言えると思う。
そうした中で体重が徐々に減りつつあることを考えれば、たぶんそんなに気にすることではないんじゃないかと思われる。ここでこうして体重減少について書いていること自体が、すでにボク自身が気にかけていることの表れだろうけど、わずかに芽生えつつある不安もここで書くことによって雲散霧消してしまうだろうという目論見がある。感じているのはその程度の不安にしか過ぎない(たぶん)。
これからボクの身体はどのような過程を経て、どのように変化していくのか。それをとても楽しみにしている。現役引退を機に我が身とのつき合い方を変えた。生理学的な視点から現象学的な視点へのシフト。身体を本質から考え直すことで手に入れた視点がボクの身体をどのように変えていくのか。その過程に現在の体重減少がある。さてボクの身体はこれからどうなっていくのか。さらなる検証を続けていきたいと思う。乞うご期待!
「ちょっとだけ」を追いかけて。 [身体にまつわるお話]
こんなにも更新していないこのブログに訪れて下さってありがとうございます。
最近はホントに気まぐれ更新なのでどうかご了承のほどを。
さてと今日は研究日。なので大学の研究室には行かず、自宅かその近辺で書いたり読んだり考えたりする予定。最低限すべきことは明日の講義の準備。春学期最後の一コマとなった「スポーツ文化事情」の内容を考えなければならない。最終講義ということでこれまでのまとめをするつもりだが、レポートを提出させたり授業評価アンケートを書いてもらう時間をつくらなければならないので、話をコンパクトにまとめようと思っている。
具体的に言えば、この15回の講義内容がどのような文脈に位置づけられるのかということ。つまり、スポーツというものを単にカラダを鍛えるための手段としてではなく一つの文化として捉えよう。そうすることで社会の仕組みや世界の成り立ちを考えていくための一つの視点となる。スポーツを通して社会や世界を知り、そして人間そのものへの理解を深める。これほどまでに私たちの身近にあるスポーツが及ぼす影響(いい意味でも悪い意味でも)を考察するためには、スポーツはあくまでも文化として捉えるべきである。スポーツが文化であるということを、なんとなくでもいいから実感してもらえたならそれで僕はうれしく思う。
そうしてまとめる前に一つ話をしておきたいテーマが「スポーツの現場でスパルタ教育はなぜなくならないのか」。先週の講義の終わりで少し話をし、この問いをじっくり考えてくるようにと指示したので、前半部分はこの問いを巡って話をしたいと考えている。
それにしても暑い。クーラーもつけずに玄関のドアと窓を開け放ち、短パン一丁でこうしてパソコンの前に座っているから当然といえば当然なのだが、それにしても暑い。けれど、つい数日前の湿気むんむんな気候から比べればどれほど過ごしやすいことだろう。ときおり吹き抜ける風が肌に心地いいし、背中をつたって流れる汗もどことなく爽やかだ。いくらか疲れ気味のカラダは左肩甲骨やや背骨よりのあたりに違和感を感じているが、これは今に始まったことではなく、思い返せば神戸製鋼に入社した直後に経験した「ホットショット」と呼ばれる神経症状の名残で今でもたまに症状が出る。ストレッチポールの上をグリグリすれば少し治まり、肩甲骨周りをぐるぐると動かせば幾分かは落ち着いてくる。
それから29歳の終わり頃、あれは確か2004年の11月だったと思うが、近鉄ライナーズとの練習試合で左肩を強打したこともおそらくは関係しているのだろう。相手とぶつかった瞬間、星がキラキラと目の前を飛び回り(そう、まるで漫画のように)、天地がひっくり返ったかと思うくらいの衝撃を浴びた。これまでに経験したことがないような衝撃だった。つまりそれは身体を翻して衝撃を吸収することができずもろにぶつかったが故の、言わば下手くそな身体運用が為せる業だったのだと今では思う。左肩を強打したはずなのにしばらくは首が回らずに苦労したことが思い出される。鞭打ちのような状態だった。たぶんこのケガも今の左肩甲骨の違和感に加担していると思われる。
そういった意味で身体というのはとても正直である。無理をすればするだけ身体には澱が溜まるようになにかが蓄積されていく。だから無理をしてはいけないのだが、ただ難しいのはどこまでが無理をすることなのかが明確ではないところだ。無理をするはるか手前であきらめてしまえば身体の錬磨は望めないからだ。“ちょっとだけ”限界を超えること。その連続が研ぎ澄まされた身体をつくりだすのである。
9年連続200本安打を記録したイチローが凄いのは、この“ちょっとだけ”を見極めているところだろうと僕は思う。「見極める」というのは少し表現が違って、あくまでも体感として知っているというところにある。“ちょっとだけ”限界を超えている状態は主観的にはとても気持ちがよく、その気持ちよさをイチローは身体との対話を通じて知っている(たぶん)。だから大きなケガをすることなくコンスタントに打ち続けることができる。200本安打を打ち続けることは真似できないにしても、9年連続ケガをしないということは、どの年代のどの競技レベルの選手でも目指すことはできるはずだ。
僕はこの違和感と向き合いながら自らの過去を振り返りつつ、これまで無反省的に繰り返してきた身体とのつき合い方を見直し、“ちょっとだけ”を探り続けていこうと思う。もちろんラグビーではなく研究においてだけれども。






