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「マネジメント」という語感は好かん。 [身体にまつわるお話]

このままさらりと去っていくであろう3月。秋学期が終わり、待ちに待った春休みに突入してよろこんだのも束の間、もう4月は目の前である。毎年同じように感じるのなら年を経るごとに計画的に過ごせるようにはならないものか。と、毎年、考えているが一向に変わらない。いつもあっという間に過ぎ去っていく。僕の怠惰な性格が問題か、それとも季節に特有なものか。はたまた生物学的なものが原因か。熊などの動物が冬眠から醒めるように人間もまたそうで、遺伝子に刻まれる太古の記憶がこうした体感を呼び起こすのかもしれないぞ。


というのは明らかに大げさ過ぎるね。


さて、今日は年に一度の健康診断の日であった。やや血圧が高めなのは現役時代からで、本日もまた高めの数値。さほど気にしてはいないが、ちょっとだけ気になってはいる。血管が固いのか、それとも血液が粘っこいのか。とにかくストレスを溜めないように気をつけねば。それから確実に運動不足なここんところの生活なので、シャトルランやうさぎ跳びやジャンプトレの時間を積極的につくるべし、だな。とはいえ10日ほど前に痛めた左足の親指がまだ腫れているので、しばらくはエアロバイクで我慢することにはなりそうだが。


というわけで本日はエアロバイクを40分。足の様子をみながら四股を100回。とても気持ちがよい。この気持ちよさには汗を流すことの爽快さも含まれるが、それ以上に身体を使うことがもたらす何とも表現しようのない心地よさがある。なんといったらいいのか、心身の蟠りや詰まりが流れていくような、そんな感じである。喩えるなら仕事上で悩みを抱えているときに、悩みそのものが消え去るというような具体的な効果はないにしても、その糸口がふっと見つかる、いや見つかったような気になって心が少し軽くなるというような、そんな状態だ。


「八方塞がり」から脱出し、一縷の望みがみえるところまで連れていってくれる、ときもある。少なくとも僕にとっての運動はそんな意味がある。


だから、運動がもたらしてくれるこの心地よさを生理学的な理由で説明するのだけは避けている。せっかくいい気分になっているのに、最大酸素摂取量が上がるとか、一回あたりの拍動数が増えるとか、そんな実感できないことを並べ立てられたら興醒めするからだ。だいたい健康に関する生理学的な知識の野暮ったさといったらない。


・・・おっと、これ以上はやめておく。健康に関する講義を担当している身としては、これ以上語ればその言葉がブーメランのように自分に戻ってくるからだ。自分の首を絞めることは避けるのである。


とにもかくにも健康を維持・増進するためには身体からの声を聴くことに尽きる、とだけは言っておきたい。それを前提とした上での栄養学であったり、生理学であったりすると僕には思われる。身体は「マネジメントする」ものではなく、「生きられる」ものなのだ。外側からの管理には決して馴染まない。そんなことしたら機械的になってしまう。身体中にボルトが埋め込まれたまるでサイボーグのような僕が言うのだから、間違いありません。現役時代のある時期に、徹底的にマネジメントしてきた僕からの提言であります。


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『対話のある家』(@SUMUFUMULAB)体験記その3。 [身体にまつわるお話]

 そうこうしているうちに「家」に辿り着いた。玄関で靴を脱ぎ、皆でぞろぞろと家の中に入る。フローリングの部屋(たぶん)から畳の部屋へと入り、そのまま庭に出た。そこで「人間知恵の輪」をして遊んだあと、畳の部屋でちゃぶ台を囲んでしばしの談笑。その場で寝転がってみたり、会話を楽しんだり、みかんとせんべいを食べたりもした。いってみれば暗闇での家族団らんである。このときになると不安や怖さは一切なく、むしろ心地よさが広がっていた。懐かしい感じもした。


 そういえば「せんべい」を食べるときに、いつもとは違う奇妙な感覚が芽生えた。「せんべいをどうぞ」と手渡されているのだから、それが「せんべい」であることはもちろん認知している。たぶんあのときの僕の胃袋は「せんべい」の形にへこんでいたはずだ。ただ、味を知らされていないし、見かけもわからないので、なに味の「せんべい」かはわからない。ざらめのついた甘辛味かもしれないし、塩味、もしくは醤油かもしれない。手に取ったときのざらつきで醤油かもしれないなとは感じたが、見えないので口に入れるまでは確定はできない(あっ、匂えばよかったのか)。
 ほぼ予測がつかないまま口にしたその味は塩味だった。恐る恐る口に入れて、味を確かめようとしたからだろうか、味の余韻が飲み込んでからしばらくたっても残り続けた。たぶんこれは「味わう」ことに全感覚を総動員しようと試みたからだろうと思う。視覚が働けば見かけと経験則でだいたいこんな味だと予測できるし、予測が立てば各感覚器はその出力を下げる。
 だが、暗闇ではそうはゆかない。もし、身体を害するものだとすぐに吐き出さねばならず、その判断を口の中に入れて「味わって」から行なう必要がある。となれば、各感覚器は反対にその出力を最大化し、「味わう」ことをより丁寧に行なわざるを得なくなる。「どんな味かわからないし、身体に無害かどうかもわからない」という事態に味覚や嗅覚や触覚の感度が上がる。このときの「研ぎすまされ感」を僕は「奇妙」に感じたのだった。
 

 さて、そろそろまとめに入ることにしよう。
 今回、暗闇の中で「家」を体験して感じたのは、ある空間を快適に感じるのに視覚はそれほど役に立たないのではないかということである。やや言い過ぎのような気もするけれど、少なくとも他の感覚と比して優先順位は高くないと思う。
 五感の働きの総量は決まっていて、普段の生活ではそのほとんどを視覚が占める。身体が察知する情報量の8割が視覚によるとも言われており、ということは、残りの2割を聴覚や触覚などの残りの感覚器で感じていることになるわけで、それはつまりほとんど使っていないということである。だから「目で見よう」という身構えがスタンダードな身体は、暗闇に入るや否や多いに戸惑う。視覚情報がゼロの状態に立ちすくむわけだ。
 しかし、僕たちが思っているほど身体は柔じゃないし、馬鹿でもない。視覚が役に立たない情況になると他の感覚器が目覚め出す。「オレらって実はこんなにもいろんなことがわかるんだぜ」と耳も鼻も口も肌も自己主張を開始し、本来の力を発揮する。そのなんだかよくわからない蠢く感じがとても不思議で心地よかったのである。


 ツイッターではある方からこんな感想を頂いた。「まるで胎児になった気分になって、とてもやすらげました」と。感覚が研ぎすまされるような実感があった僕とは対照的な印象である。「研ぎすまされる」と「やすらぐ」とは対局にある体感ながらも、なぜだかこの「やすらぐ」というのもよくわかる。
 胎児は母親のお腹の中ではやすらぎながら、その心身はめまぐるしく成長してゆく。身体の各部位が発達するに連れて感覚が研ぎすまされるのを、胎児はほとんど暗闇の中で感じるわけである。ここから考えれば、「やすらぐ」と「研ぎすまされる」が混ざり合う体感を覚えたのは頷ける。
 かつて胎児だったときの朧げな記憶を暗闇は蘇らせてくれる。とすれば、本質的な「快適さ」は主に視覚以外の各器官で感じるというのも、あながち的を外してはいないのかもしれない。
 ちゃぶ台が置かれたあの畳の部屋の間取りは、今でもはっきりと「記憶」されている。もちろんそれはあくまでもイメージにしか過ぎないのだが、畳の肌触りや隙間風やちゃぶ台の高さ、それにせんべいの味も相まって、あの部屋の記憶がありありと「ここ」にある。余韻をともなうイメージとしてのこの記憶のしつこさが、視覚に頼ることの危うさと、他の感覚を束ねるものとしての「肌感覚」の確実性を物語っている気がしてならない。映像を始めとした「視覚情報」が溢れる現代社会が、どのような影響を身体に及ぼしているのか。そんな大きなテーマについても考えさせられる今回の体験であった。


 かなりざっくりとした体験記になってしまった。やや読みにくい箇所が目立つ文章になった気がするけれど、このままアップすることにする。というのも、一連の体験ではあまりに情報入力が多すぎて、何から書けばよいかをうまく整理できなかったのである。あれもこれもどれもそれも書きたくなり、また「うまく言葉にできないながらも言いたいこと」なんていうのもうっすらとあって、正直なところ頭の中はてんやわんやである。だが、こうした事態こそが視覚以外の感覚器による情報受信量の多さを物語っており、恐るべしDIDである。
 百聞は一見に如かず。興味のある方はぜひ体験をおススメしたい。


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『対話のある家』(@SUMUFUMULAB)体験記その2。 [身体にまつわるお話]

 視覚障害者のタエさんにアテンドされて、いよいよ暗闇へと足を踏み入れる。ドアを一枚隔てたそこにはこれまでに経験したことのない漆黒の闇が広がっていた。多少の暗闇なら目が慣れてくるとうっすら人影が見えたりするものだが、そこではまったく見えない。「照度ゼロ」とは本当に真っ暗である。
 踏み入れてまもなく僕は腰が引けてしまった。ある種の「怖さ」を感じた瞬間から徐々に不安が生じ、だんだん増幅してゆく。「どうふるまえばよいかよくわからない」情況に晒されて、あっという間に心が不安で満たされたのだった。どうやら他の4人も同じだったようで、その不安を払拭すべく、それぞれが口々に大きな声を出し始めたのである。


「暗すぎる〜」
「しんちゃん、ここにいます」
「ラガーはここです〜」
「ここに段差があるよ〜」
「なんだか地面がざらざらしてる〜」


 言い忘れていたが、部屋に入る前にニックネームを決めて、それを呼び合おうと取り決めをしていた。暗闇の中では自分のことを「わたし」や「ぼく」と称してもうまく伝わらない。声色で「誰が」を特定できれば問題ないが、初対面同士ではそれが叶わない。だから、記憶に残りやすいニックネームを決めて、自分のこともニックネームで名指すのである。
 ちなみに僕はラグビーをしていたので「ラガー」というニックネームをつけた。ちょっとした文脈を作った方が憶えやすいだろうと思ったからである。


 事前に「暗闇の中では声を出すように」と言われていたこともあり、部屋に入った僕たちは声を出すように努めた。あーじゃ、こーじゃという声で途端に周囲が賑やかになった。暗闇突入直後のあの乱れ飛ぶよう声は、僕には雑音に聴こえた。そもそも僕自身が冷静ではなかったので、聴く耳が持てなかっただけかもしれないが、とにかく尖っているように聴こえたのである。言うなれば、情報になる以前のただの音声としての声で、だから何がなんだかよくわからない。「ここ」って、いったいどこなんだ。
 おそらくこのときの我々は、ただ自分の不安を紛らわせるために声を出していただけである。誰かに届くようにという配慮もなく、まずは自分を落ち着けるための声を出していたに過ぎない。「僕はここにいる」という情報を誰かに伝えようとしながらも、まずは不安が先に立つのでどうしても独りよがりになる。だから、聴き手には尖りのある声としてしかキャッチできなかったのだろう。おそらく僕の言葉も他の4人に届くことなく、自らの心の隙間を埋めるためだけの「がなり声」でしかなかったはずである。


 そんな中でも常に落ち着いて僕たちを誘導してくれたのがタエさんであった。彼女の導きでだんだん暗闇に慣れていくと、声の質は明らかに変化していった。声の肌理が滑らかになったというか、なんというか。たぶんこれは、徐々に不安が解消していくにつれて、誰かに届かせよう、届けようという気配りができるようになったからだと思う。そこに届けるべき他者がいる。そう意識するだけで声はメッセージとなる。<つづく>


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『対話のある家』(@SUMUFUMULAB)体験記その1。 [身体にまつわるお話]

過日に積水ハウスとダイアログ・イン・ザ・ダークの共創プログラムである「対話のある家」を体験した。そのときに感じたことや思ったこと、のちにそれをもとに考えたことを、数回に分けて書いていこうと思う。

 というわけで今日は第1回目。まずはこのプログラムの詳細を明らかにする。


 ダイアログ・イン・ザ・ダーク(以下、DID)とは、一言で表せば「暗闇のソーシャルエンターテインメント」である。完全に光を遮断した暗闇を視覚障害者にアテンドされながら体験するというもので、1988年のドイツで哲学博士アンドレアス・ハイネッケにより開発されたメソッドだ。世界30カ国・約130都市で開催されるほど人気を博している。日本での初開催は1999年で、現在、東京では常時開催されている。感覚を開いて視覚以外の感覚で世界をとらえ、参加者同士のコミュニケーションを醸成するプラットフォームとして、注目されている。
 うめきたグランフロントで催されている「対話のある家」は、このDIDと、よりよい住空間の研究を追求する積水ハウスとがコラボレーションしたもので、「家(住空間)」を照度ゼロに近い暗闇の中で体験するという内容である。


 当日「住ムフムラボ」に足を運ぶ。担当者に挨拶を済ませたあと「対話のある家」を体験するメンバー同士が顔を合わせる。総勢5人。年のころは皆30代で、一組のカップルと男性が3人。この男性は3人ともにひとりでの参加で顔見知りではない。つまりお互いの素性を知らない者同士である。知らない者同士の方がオモシロそうな気がしたので僕は意図的にひとりで参加したのだが、体験後に話をしたところ他の2人も同じように考えていたことがわかった。顔見知り同士だとどこか安心してしまい、そうなると暗闇の本質に迫りきれない。どうせなら徹底的に暗闇を味わいたい。そう思ったのである。
 受付をすませ、携帯電話腕時計など光を発するものを外したあと、5人はやや暗い部屋に招き入れられる。いきなり暗闇に入るとパニックを起こしかねないので、やや暗がりの部屋で諸注意とこころ構えの説明を受ける。アテンドするのは視覚障害者のタエさんである。
 

“まず、当たり前だが暗闇の中では何も見えません。聴覚を頼りにしなければ暗闇の中で歩いたりすることはできません。なのでとにかく声を出して下さい。ただしゃがむだけであっても、声を出しながら行なうことでその人の動きがイメージできるはずです(と見本をみせてくれる)。とにかく声を出すことと聴くことが大切です。”

 声の出所がだんだん下に移動するのが感じられ、頭の位置がだんだん下がっていく様子がものすごくよくわかった。


“次に、移動中は白杖を使って足下を確認してください。鉛筆を持つようにして、先を小刻みにトントンするか、あるいは左右に擦るようにすればいいですよ。障害物があるかどうかを確かめる意味もありますが、これから足を置こうとする場所が固いのか柔らかいのかなどの状態(タイルや砂場、レンガなど)を知るためでもあります。”

 杖の先に神経が集中して、床の材質や表面の凸凹が思いのほかよく分かった。杖の先にまで自分の身体が拡張しているように思えた。


“それから、家の中に入ると白杖は使えません。前方をはじめとして周囲に壁があるかないかを手を伸ばして確認する必要がありますが、その際、「手の甲」で行なって下さい。指先から行なおうとすると突き指をするケースがあります。目標物を視認して、いわゆる目的があってそれを触れようとして手を伸ばすときにはそれで構わないけれど、そこに物体があるかどうかを探るときには「手の甲」を使ってください。”

 これはやってみればわかるのだが、探るときは「手の甲」の方が格段に安心感が増す。指先から、つまり「手の平」で探ろうとすると、身構えが固くなり、腕や肩のあたりの緊張が高まる。なぜこうなるかはよく分からないけれど、とにかくそのような感覚を得た。もしかすると、突き指しそうなことへの潜在的な恐れからくるものかもしれない。
 

 さて、これで暗闇の世界へ入る準備が整った。果たしてどのような感覚がこの身を襲うのであろうか、楽しみと不安が入り交じる心境のまま、前の人に続いて歩みを進めたのである。<つづく>

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アタマとカラダ、哲学と反哲学。 [身体にまつわるお話]

あの大きな台風が過ぎ去ってからというもの、季節はすっかり秋になった。頬を撫でる風や西日のかたむき具合、それから思わず見とれてしまう夕焼けも、すべてが秋めいた。ここからここまでが夏でこの先が秋、という境界線などあるはずもないのに、僕たちは秋になったということが感覚的にわかる。だから、大学内ですれ違う教職員さんへの、ここ数日の挨拶は「すっかり秋になりましたねー」。それだけでわかり合える何かがある。


秋といえばラグビーシーズンの始まり。だいたい9月から翌年の2月あたりまでがシーズンで、だからこの時期になるといやが上にも気分が昂ってくる。秋の匂い、そう、粘りつく夏とは異なるカラッとした空気の感じが、僕の身体にスイッチを入れる。現役を引退したことはアタマではわかってはいるものの、カラダはまだわかっていない。「わかっていない」のではなく、十数年をかけて擦り込まれた体感を律儀に繰り返しているのだと思う。じっくり時間をかけて染み込んでゆき、やがてその身になるとなかなか抜けなくなる。とても惰性が強い。それに比べてアタマは割と切り替えが早く、節操がない。ときに暴走をするのもまたアタマで、カラダの制御を振り切ることもあるから怖いといえば怖い。その点、カラダは暴走しない。お腹が減れば動けなくなるし、限界を超えれば怪我をするか病になる。


切れ者だがちょっとお調子者のアタマと、律儀であまり急な変化を好まないカラダ。厳密にいえばアタマもカラダの一部だから、こんなふうにはっきりと区別することはできないのだが、ついこう考えてしまう。アタマとカラダ。理論と実践。アタマをココロに言い換えれば、デカルト以来の「心身二元論」になる。


「哲学とは欧米人だけの思考法である」


と、木田元の『反哲学入門』に書いてある。なるほどと膝を打った。デカルトもカントもショーペンハウエルも、もっと遡ってソクラテスもプラトンも、それからハイデガーもニーチェも、当たり前だがみんな欧米人だ。アタマとカラダを分けて考える「心身二元論」も、長らくの年月を経て欧米人が練り上げてきたひとつの考え方に過ぎない。仏教による教えのひとつに「心身一如」があるが、近代を迎えるまでの私たち日本人にとってはむしろこちらの考え方に馴染みがある。


いや、「私たち」とするのは少し乱暴に過ぎるかもしれない。近代科学がこれほどまでに浸透した現代社会では、アタマ(ココロ)とカラダは別物だと認識している人は多い。少なくとも僕の中では、アタマとカラダは切り離せないものとしてあるということだ。


アタマとココロを同一のものとして考えるのが無理筋なことはわかっている。だが、大きな枠組みでこの問題を捉えるとき、すなわちカラダに対する反対概念を思い浮かべるときに、僕はアタマとココロにそう大きな違いを見出すことができない。「カラダ=無意識」だとすれば、「アタマ・ココロ=意識」となるわけで、ここはシンプルに考えたい。そうでなければいざカラダを使う段になると途端に動けなくなる。


アタマでいくら考えたところでカラダは動かない。だが、アタマで考えないことにはより洗錬された動きの獲得はあり得ない。このあわいを右往左往することで身体なるものは練られてゆくのだと思う。


木田元は「ニーチェ以前と以後を、同じ哲学史に一線に並べるのは、おかしい」といっている。ニーチェは、プラトン以降の哲学全般の批判し、克服しようとした。いってみれば「反哲学」であるという。つまり、科学的な世界観への危機感から出発して、その思想を形成したのがニーチェであり、これは19世紀末の芸術家たちが感じ表現した危機感と共通する。


これを僕なりにまとめてみると「アタマでゴチャゴチャ考え過ぎたらアカン」ということになる。論理的だとか普遍的であることよりも、感性や意志や意欲というもっと大切なことがあるやないかという警鐘をニーチェは鳴らした。だとすればいつの時代のどの人も、真に「哲学」を志す人は考えることは同じだ。「同じ」が言い過ぎなら「似通っている」とでもしておこうか。アタマ、すなわち「考える」が行き過ぎないように、当の哲学が警鐘を鳴らしているとは驚くしかない。


まだ頭の中でまとまっておらず、ただ殴り書きのようになってしまったが、『反哲学入門』を読みつつしばらくこの問題を考え続けてみたいと思う。あれほど複雑に思えた思想史も、ゆっくり読み解けばその相貌をひとつひとつ見せ始めるのかもしれない。


さてと、今日のところは飲みにゆくとするか。
と、僕のカラダは訴えかけている。

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春先のふやけた身体に喝。 [身体にまつわるお話]

おっとまたもや軒先にどどんと広告が出てやがる。それだけホッタラカシにしてたってことだから自分のせいだけれど、それでもやっぱりムッとするのはわがままな性格ゆえか。それにしても時間が経つのが早くてもう3月。そりゃソネットさんもしびれ切らせるって話です。書きますよ、書けばいいんでしょ。


と、一人芝居をすることで更新停滞の後ろめたさを払拭したかったのでした。


すっかり春を思わせる陽気に、どっと迫り来るのは眠気。春眠暁を覚えず。というには時期尚早だが、春の暖かさは心地のよい眠気を誘う。土の中から這い出る虫とは対照的に、そのまま布団の中に潜り込みたくなる。冬眠ならぬ春眠。身体の表面がふやけていくような何ともいえない微睡みと格闘しながらようやく夕方まで辿り着いたのだった。


この強烈な眠気を誘発している原因はもう一つ考えられる。それは花粉、じゃなくてPM2.5、でもなくて、運動不足である。身体の内奥から湧いてくるようにググっと力を込めるいつもの感じが不足している気がするのだ。意欲の欠如、つまり力を入れようにもうまく入らない。普段から力感のない動きを追求しているがゆえに、日常生活ではほとんどふにゃふにゃ。だからたまにはある程度のストレスをかけておかないと、どうしようもない不安感が身体を襲う。放っておけば自信喪失や不信感にまで至るようなこの不安感は、早々にやっつけておかねばエラいことになる。他の人はどうか知らないけれど、僕の場合、これを退治するには身体を動かすことに尽きる。自分の内面をつぶさに観察していると、どうもこの手の不安感は身体のフィジカル面から生まれてくるような気がしてならないのである。


ゴルフのスイングにしてもラグビーのゴールキックにしても、いやすべての身体運動について言えることだと思うが、リラックスをすること、すなわち「力を抜いた」プレーこそがよいパフォーマンスにつながるとされている。実際にそうだとも思う。心身ともにリラックスした状態、すなわち無駄な力がどこにも入っていない状態がよいパフォーマンスを生む。しかしだ。だからといって最初から力を抜こうとしてもそれは叶わない。力の入れ方がわかっていないうちから力を抜こうとしたところで、上手くはゆかない。何かをしようと意識的になっている状態が「力む」だとすれば、その状態にまずは足を踏み入れないことには「力が抜けた」理想的な状態に至ることは難しい。


「力む」がなければ「力を抜く」もない。僕はそう思う。


たぶん、ちょいと弛め過ぎなのだ。リラックスしよう、リラックスしようと意識し過ぎたがゆえに、身体がふやけてしまっている。こんなときはググっと力を入れる機会を作らなければ。


てなわけで、ひとまず今夜は打ちっぱなしにでも行って、「どこまで力むことができるか」という意識でスイングすることにする。


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深層筋と表層筋の関係。 [身体にまつわるお話]

木曜日は神戸女学院で非常勤の日。電車に乗って、岡田山の坂を上って、緑とヴォーリズ建築の校舎に囲まれた場所で授業をするのはとても心地がよい。最寄り駅の門戸厄神から坂を上っていくと、だんだん時間の流れ方がゆっくりになる。それがまたたまらなく気持ちいい。


僕が受け持っているのは「ボディサイエンス」。今日は「深層筋」の話をした。私たちの身体を支えている筋肉は表面を覆っている表層筋だけではなく、その内奥には極めて優秀で機能的な深層筋がある。その中でも特に重要なものに「大腰筋」があり、これは背骨の腰の部分(腰椎)からお腹を横切り、骨盤を通って脚の内側の付け根(小転子)に付着している筋肉で、上半身と下半身をつないでいる唯一のもの。これを活性化すれば、腰痛肥満、胃弱、肩凝り、高血圧、不整脈、喘息などの症状の改善にも役立つと言われている。この大腰筋はスポーツ界でも注目されており、今では「もっとも使われていない、もっとも太い筋肉」であるこの大腰筋をいかにして活性化できるかが、身体を鍛える上での大切な視点になっている。


自分で書いておきながら何だけれど、「鍛える」という表現にはやはり違和感を覚えてしまう。どうも表層筋を鍛えるときの運動が連想されるからである。筋トレ特有の器具を用いて筋繊維を壊す運動というのは、どうしても上から目線で身体を捉えているかのように思えてしっくりこない。もちろん表層筋を鍛えることも大切なのはわかっている。現に、どっぷりと筋トレに嵌っていた時期も過去にはあるのだから、重々承知している。


だがしかし。選手時代にどっぷり浸かってきたスポーツ科学的な身体論を、一から見直して新たな理論を構築しようとしている身としてはこうした述語の一つ一つが気になる。こればかりはどうしようもない。能楽師の安田登氏は、深層筋をキタエルことについて「目覚めさせる」「活性化する」と表現されているが、氏のこうした思考の足跡からもやはり「鍛える」というのはどこかニュアンスが違うと感じる。どちらかといえば「練る」という方がしっくりとくる。あくまでも僕の中ではということだが。細かいことをぐだぐだとすまない。


閑話休題。


表層筋はガンガンに鍛えることができる。ボディビルダーの見事な身体を見ればそれは明らかだ。だが深層筋はできない。その理由の一つに、特定の筋肉を意識することが困難である、ということがあげられる。表層筋の一つである「力こぶ」の上腕二頭筋を意識することは簡単だ。力めば固くなるし、直接触れることだってできる。古典的な筋トレでは今まさに鍛えている筋肉をはっきりと意識して行いなさいと言われる。バーベルを持ち上げながらどの筋肉に負荷がかかっているのかを意識することで、より効果が上がるのだという。晩ご飯の献立を予想したりデートコースを考えながら筋トレをしたところで効果は薄いのである。


しかし深層筋はそう簡単にはいかない。身体の内奥にあるので意識することが難しい。というかできない。専門的な知識がなければそもそもどこにあるのかすらはっきりしないわけで、そうなると当然のように直接触れることなどできない。表層筋を鍛えるのと同じ方法では練ることができないのである。この点からも「鍛える」ではなく、「目覚めさせたり、活性化したりする」ものであることがわかる(深層筋を活性化させるための施術に「ロルフィング」がある。興味がある人はぜひ調べてみてほしい。機会があれば僕も一度体験したいと思っている)。


それからこれがもっとも大切なことだが、表層筋を鍛え過ぎれば深層筋が働きにくくなる。つまり、表層の筋肉に頼る身体の使い方になってしまうのだ。具体的な例を挙げると、先に述べた大腰筋は腹筋が発達し過ぎると使いづらくなる。6つに割れるほどに鍛え上げた腹筋は、確かに見た目には美しいかもしれないが、機能性からすれば大したことはない。太ももを上げる、上体を起こす動きを支えている大元は大腰筋である。その大腰筋がしっかりしていなければ、いくら表層の筋肉を鍛えたところで身体は安定しない。むしろその働きを阻害するのである。だから腹筋のやり過ぎは禁物なのだ。


「見た目にはそれほど筋肉がついているようには見えないけれどタフで力が強い人」は、知人や友人に一人や二人はいるだろうと思う。彼らの力の源泉はおそらく深層筋にある。もちろんそれをすべての原因とするのは暴論だが、ただこれだけ表層筋への偏重傾向が顕著になりつつある中では、敢えてこう断言してみてもいいのではないかと思うのだが、どうだろう。


深層筋と表層筋の関係。これについてはもっと詳細に研究しないといけないと考えている。身体運動を筋肉だけで解釈するのには限界があることももちろん承知しているが、されど筋肉を無視することができないことも事実であって、そこを突破するにはこの両者の関係から思考を開始するのが妥当かと思われる。それにこの問題は、僕自身がたくさんの怪我をした自らの身体とうまく付き合っていくためには避けて通ることはできない。


現役を退いたスポーツ選手は皆どこかに古傷を抱えている。現役時代、鍛えた筋肉で支えることができている間は痛みが出ないにしても古傷はやがて痛み出すことだろう。身体を支え続けてきた表層筋は時間が経つにつれて衰えてくる。それと同時に痛みや疼きが身体をチクチクする日々がおそらくはやってくる。いや、もしかするとズキズキかもしれない。その痛みや疼きと上手に付き合うことが僕たち元スポーツ選手にとっては最重要課題である。その課題を解くにはやはり深層筋を目覚めさせるしかない。表層筋に頼らない身体の使い方にシフトするしかない。こちらの方向に舵を取らなければ、幾度も手術で切り刻み、数本のボルトが埋め込まれたままのこの身体はやがて悲鳴をあげるに違いない。


おー、こわ。とは言え、これもまた一つの挑戦であり、「身体をつくる」って考えると、とても楽しみではある。この身体は格好の実験材料となりうるわけで、これから先も身体で遊んでしまおうと思う。


最後に一つだけ。


能を舞う能楽師は60歳でやっと一人前になり、80歳を超えても現役で観る者を魅了する舞を舞う。なぜそんなことが可能か。言うまでもなくそれは深層筋をうまく使っているからである。「立ち方」や「すり足」を始め、呼吸の仕方や声の出し方に至るまでの能に求められる様々な所作が、深層筋の活性化を促す。これは、老えば衰える表層筋とは違い、深層筋は老いても練り続けることができるということだ。また深層筋は、立ったり座ったりや歩くなどの日常的な動きの中でも培われるという。わざわざジムに通って派手に運動をする必要などなく、生活を正すことで身体に潜在している力を呼び覚ますことができるとなれば、希望も湧いてくるというものである。



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「あたまに追いつかれないように」。 [身体にまつわるお話]

ここんところずっと頭にこびりついて離れないのは「あたまに追いつかれないように」という感覚である。ほぼ日手帳の端っこで見つけたこの言葉によっていろんなことが腑に落ちたような気がしている。たとえばゴルフだったり、「書く」ってことだったり、それから「話す」ってこともこの感覚が大切になってくるのではなかろうかと、一気にイメージが膨らんでいる。その腑に落ちたあれこれについて、今日はちょっと書いてみたい。この腑に落ちたあれこれは、到底短い文章で説明できるような代物ではなく、いつものごとくよろよろと寄り道しながらの記述になるとは思うが、どうかそのあたりはご勘弁いただきつつ、読んでもらえればありがたい。

この言葉を見つけたのは今年から使い始めたほぼ日手帳の3月6日の頁である。そこには次のように書いてあった。


_____
あたまが考えてしまわないように、どんどん描いて、あっという間に描きあげた感じでした。あたまが手に追いつくと、っていうと変な表現ですけど、そうするとどうしても作為的になるので、あたまに追いつかれないように描く、という感覚で。
———皆川明さんが『思いをのせたファブリック。』の中で———

_____


すぐさまピンときたボクはすぐに「皆川明」という名前をネットで検索してみた。すると1967年生まれでボクより少し歳が上のファッションデザイナーということがわかった。

ふーん、そうなんだ。
(歳が近いということに最近のボクは特に敏感になっていて、たぶんこれはボクの中にある焦りと不安が生み出す、あまりよくない種類の羨望なのだろう。この種の羨望、そしてそれを生み出す不安は自分を苦しめる元になると『毎日トクしている人の秘密』で名越康文先生が書いていた。気をつけないと)

と、ささやかな心の波紋を感じながら、当たり前のようにほぼ日のサイトに訪れて、この『思いをのせたファブリック』を読んでみた。すると皆川さんは昨年のほぼ日手帳のデザインをされた人だということがわかり、このコンテンツでは作品へのコンセプトや想いについてインタビュアーに語りかけている、ということがわかった。

へー、そうなんや。
(と、細部へのこだわりを熱く語る様子にフムフムとなる)

さて、普段この人がどのような仕事をされていて、どのような作品を作っているのかよく知らないけれど、とにかくこの「あたまに追いつかれないように描く」という感覚にはピンときた。この「描く」を「打つ」や「走る」や「書く」などの他のいろんな動作に置き換えてもそれは成立するのではないか。やや突飛に過ぎるかもしれないが事実そう感じたのだから仕方がない。言葉と感覚の関係性に着目すればおそらくこれらの動作にも共通する感覚だろうと思う。

たとえばこうして書いているときに「あたまに追いつかれている」状態では一向に筆が進まない。センテンスが終わるたびに「てにをは」の間違いが気になったり、ある言葉の使い方に疑問が生まれて、それが無性に気になって辞書を開きたくなったりする。「ここまで書いたらこんな批判がくるだろうな」とか、「ここはもっとやんわりとした表現にせなアカンよな」とか、過剰な自主規制モードに入ったりもする。だからもちろん書いていてもオモシロくないし、リズム感が悪いものだから途中で書くのが嫌になってくる。で、その嫌々書いたという痕跡が文章に刻まれるので、たとえ最後まで書いたとしても納得できるレベルとはほど遠い出来になる。とほほ、となる。

しかし、「あたまに追いつかれないように」書けている時はそうではない。心地よいリズムの中で次々と言葉が浮かんでくる。そのときには妙な浮遊感があって、たとえるならばまるでどこかの誰かさんが書いているかのような実感というかなんというか。言葉を綴っているのだからあたまを使っていないわけではないことは理解しているが、あくまでも実感として、つまりは強く感じられる確かな感覚としてお腹の当たりにドンと感じられるのである。


その、まるで自分の中に住まう他人が書いているような感覚の正体は、いったい何なのだろう。二重人格?分裂してる、オレ?いや、たぶん違う。この他人様の正体はおそらく「言葉になる前の混沌としたなにか」なのだと思うのだ。普段の生活の中で感じているもろもろの集合体としてあるもの、あえて名付けるならば「心なるもの」になるだろうか。夕焼けのきれいなオレンジ色、底冷えのする研究室での寒さ、近所の串カツ屋の大将の眉毛、天気予報が晴れなのに雨に降られたときのがっかりさなど、ただ生きているだけで私たちはたくさんのことを感じていて、もっと言えば私たちの身体は生活する上であらゆるものを受信していて、この「心なるもの」に感情や思念をせっせせっせと溜め込んでいる。まるでドラえもんの四次元ポケットのような(とは言え便利な道具は出てこないけれど)、未知なる感覚の集合体を私たちは抱え込んでいる。

喜怒哀楽がまるで砂嵐のように渦巻いているその「心なるもの」は、当然のように決して言葉になるべくもないもの。だからはっきりと名指すことはできないし、そのすべてを意識化することはできない。とは言いながらも、ただぼんやりと、でも身体にはハッキリとした手応えとして感じられるものでもある。その「心なるもの」を覗き込み、だんだん熟成しつつある記憶をつまみ上げてひとつひとつ言葉にしていくという作業が「書く」ということの本質だろうと思うのである。

この「心なるもの」に正直に、またかつて自分が感じた諸々に忠実な文章を書こうとすれば、「言葉ではなく感覚を先行させること」が肝になる。言葉で考えているときはすべてあたまが先行している。これをこうして、ああして、という風にどうしても作為的になる。そうではなくて、あくまでも感覚を先行させること。明確な根拠がない中でただ心の赴く方向に歩みだしてゆく。この時の実感はまさしく「言葉がない」状態にある。もしかすると人によってはただボーッとしているだけだと感じるかもしれない。

ただ厳密に言えば言葉がないわけではない。ここにはないだけで心のどこかには確実に、ある。「今ではない過去にたっぷりと考え尽くした痕跡」としてわずかな気配を発するという仕方で存在している。ここらあたりのニュアンスというか感覚が、とてもややこしい。でも、とてもとても大切なところだ。

だからたとえば「打つ」(ゴルフですね)というのも、これと同じように考えることができる。グリップがどうだとか、左サイドで壁をつくるとか、いろんなアドバイスが言葉として頭をよぎっている間は絶えずそれを打ち消そうとしてスイングに集中できない。だから言葉を中和することでその袋小路から脱出できる。その中和の仕方におそらくほとんどのゴルファーは悩んでいる(と100を切ったあたりでウロチョロしているボクが言うのもおこがましいですが)。あたまに浮かんでは消えないアドバイスの数々が、帰ってパフォーマンスの向上に支障を来している。

さて、このへんでまとめてみる。

言葉と感覚は相容れないもの。で、両者の関係性を考える上でどのような仕方で相容れないのか。それは時間差だった。この気付きがボクにとってはとてもとても大きなことだったのでした。「言葉を手放す」「無意識に沈めておく」などいろいろな表現ができると思うけど、ボクにとっては「あたまに追いつかれないように」、つまりは両者の関係性を時間差として解釈することで、うまく言葉の呪縛を解き放つことができそうな気がしている(ひとまずはいろんな場面で実践しているところです)。

パフォーマンスが重視される現場でも当然のごとく言葉は大切で必要。ただしうまく付き合わないとパフォーマンスの向上を妨げてしまう。だから、言葉は手放したり、無意識の中にそっとしまっておいたりしないといけない。こうした関係性のもとにポランニーがいうところの『暗黙知』がつくられていく。そんなふうに今は考えています。



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「話す」への向き合い方。 [身体にまつわるお話]

目まぐるしい日々を過ごしているうちに2月も終わろうとしている。1月は入試と試験、さらには2月の第2週に予定されているスキー実習の準備で忙殺されるのは毎年のこと。「採点の祭典」を乗り越え、スキー実習も大きなケガ人が出ることもなく無事に終えることができて、本当にホッとしている。ふう。これで今週末に控えている浜松での講演に集中することができるというものだ。

その講演のお題は「スポーツ子どもたちにもたらすもの」。結果が重視されるプロスポーツではない「子どもにとってのスポーツ」という観点から、自らの競技経験を踏まえてあれこれと話をしようと思っている。これまでに何度も言っているが「生きる力を伸ばすスポーツのあり方」について話そうと思う。主な内容としては、スポーツ科学の暴走、数値主義の弊害、暴力や恫喝による指導が及ぼす影響、運動指導の適切なあり方、言葉と感覚の関係性などになるだろう。話の筋道だけは立てておいて、あとは思いつくままに話ができたらと思う。もちろん準備は入念にするつもりだ。

ただし直前になればいったんそれを忘れるように努める。これは現役時代に試合に臨む姿勢とまったく同じ。「すべて覚えてすっかり忘れる」。たとえ大切な情報であっても敢えて意識の奥底に沈めてしまうからこそ、咄嗟の判断が必要とされる場面で勝手に身体が動くのである。「ここはキックで攻めてくるはず」という直感は不意に浮かぶもの。いくつかの選択肢の中から恣意的に選び出すような仕方では浮かばない。意識の奥深くに沈殿している様々な情報の中からその場に適切な一つを選び出すのは無意識の仕事なのだ。

学生への講義や講演などを行うようになって思うのは、「話す」もまた身体を使うことに他ならないのだということ。場の雰囲気を察知し、それに応じて話題を変え、話すテンポを気遣いながら喩え話やエピソードをあいだに挟みつつ、話をする。聴き手に深く染み込むように話すには、ただ頭を整理して口を動かしておけばよいと思ったら大間違いである。「話す」ことは五感を研ぎすませて身体全体を使うことを要請する。そう解釈しているボクは、だからラグビーの試合に臨むかのように講演や講義に接しようと心がけているのである。

わかっている。こうした話し方はあくまでも理想的に過ぎるわけであって今のボクには到底うまくできないことは百も承知しているつもりだ。話の筋が次につながらなくて同じ話を繰り返したり、その焦りを抑えきれずに暗記しておいたトピックを書き言葉のままに話してしまったりすることは、しょっちゅうある。それこそパワーポイントを使って順序よく話せばそれなりに滑らかな講演になることはわかっているのだが、でもそうはしたくないのだ。体裁を整えるくらいなら今まさに自分が考えていることを話したい。訥々と話すことを手放したくない。うまく話せなくて講演後に落ち込むことはあっても、ね。もちろんそれなりの結果は出すつもり。いや、出してやる。がるる。

と意気込みつつも実のところ腹の中は不安でいっぱいだったりする。しかしここはボクにとって一つの挑戦なのだな。この不安を解消すべく入念に準備を行うことでしか乗り越えられない壁がある。たぶんこの壁の向こう側はにぎやかで楽しそうなそんな気がするから、これからもそこを目指してジタバタしようと思う。それにしても「話す」ことは難しい。だからこそ相手に伝わったと感じられる瞬間は何ものにも代え難いほどの高揚感が得られる。難しいけど楽しい。難しいから楽しい、だな。さてと。


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嫉妬されるのはモテてるってことで。 [身体にまつわるお話]

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身体への意識は、ひとたび不調になった途端に急激に高まる。筋肉痛とか発熱による節々のぎこちなさとか頭痛とかが襲っているときは、いやが上にも身体に縛り付けられる。これはもしかすると、あまりに放置されたが故の、身体からの嫉妬なのかもしれない。もっと興味を持ってよ、というね。

もし、体調が特に不調でもないときに自らの身体を意識する契機が瞑想なのだとしたら、定期的に胡座をかいて目を瞑って心を落ち着けておけば、身体に嫉妬されたりはしないってことになる。心身の状態を安定させる、身体を大切にするっていうのはこういうことなのかもしれないなあ。
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数日前のツイッターでボクはこんなことをつぶやいていた。今日はこの「身体からの嫉妬」について、もうちょっと踏み込んで書いてみようと思う。

身体というのは考えれば考えるほどに不思議である。自分のもの、というか自分そのもののはずなのに、うまく制御できなかったり、ほとんど同じようなサイクルで生活しているにもかかわらず体調が良くなったり悪くなったりする。心臓とか胃とか肝臓とかがこの身体の中にあって、それぞれが活発に働いてくれているからこそボクたちは生きていられるわけだが、自分自身のそれらを直に見ることはできない。いや、他人のものを見る機会にもおそらくそんなには恵まれないだろう。医学の発展によって心臓や胃や肝臓という専門用語がふだんの生活の中で使われるようになって久しいが、ボクたちは見たこともない自分の一部である臓器についてあたかも周知の事実のようにして語っている。休肝日は肝臓を休ませる日という意味である。もの言わぬはずの肝臓を休ませるのはその機能がよく周知されていることの裏返しであり、「そこにあるはず」というだけでこれだけ手厚く扱っている事実は、よくよく考えてみれば滑稽な話だ。

もの言わぬ臓器としての肝臓がそうなように、ボクたちはまったくもって健康な時は自らの身体を意識することはほぼない。たとえば胃腸は、調子が悪くなって痛みが生じたり、グルグルと活動を活発にした時にその存在感を露呈する。空腹を感じた時や食べ過ぎた時にも存在感を増すが、それは身体からの欲求という解釈であって、胃腸そのものへの意識ではない。

この身体の中に胃腸があるのだな、胃腸以外の内臓もこの中にはたっぷりあるんだよな、と自らの腹部あたりにまなざしを向けていると、いやな重苦しさはあれども(今、体調が悪いからね)無性に愛おしくなってくる。おお、オレの身体よ、と思う。

そんな身体だけど、普段はてんで放ったらかしである。「便りのないことが無事の証拠」ではないが、そもそも健康とはどういう状態かをじっくり考えてみたらわかる通り、意識の上で何も感じていない状態がまさしく健康である。痛くも痒くもなく、ほぼこちらの思惑通りに手足が動く状態が健康といっても差し支えないだろう。だから身体は、その存在感を四方八方にまき散らすことなく、ただそっと傍らにあるという表現がぴったりくる。

「へえそこにいたのか、あんたは」と、まるでいなかったように扱われることに身体は慣れている。でも慣れているとはいっても時にはかまってほしいのが人情というものだろう(身体に人情はあるのか?)。

「ちょっと言っていいですか、あんたがあくせく働いて、おいしいもんを食べて酒も飲んで、そうして日がな楽しく生活できてるのもね、もとはと言えばあっしがいるからなんですよ、そこんとこ忘れてもらっちゃあ、困るなあ」と、ときどき嫉妬心を抱く。それが風邪などの体調不良として自覚される。

放ったらかしにしてたら、してた分だけ仲直りするのにも時間がかかるから、まるで恋人みたいなものだ。そんなときは素直に「すんませんでした、以後は気をつけます」とおとなしく機嫌が治まるのを待つしかないのである。言い訳すればするだけこじれるのは目に見えているから、もちろんしない。この辺もまったく恋人と一緒である。

てなことを妄想するくらいにしんどい今回のボクの体調不良だが、なぜこうなったのかを思い返してみると、身体をわかったつもりになっていたことに起因するんだろうなと漠然と思っている。だが、断定はしない。断定してしまえば、また「あんたは全然わかっていない」とまた強烈な症状が襲うような気がするからである。今後ともこの嫉妬深い自らの身体とは、じっくりと腰を据えて付き合っていく所存である。

なんのこっちゃ。




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