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ここんところで読んだ本を挙げてみました。 [本・映画などなど]

ここんところあらゆる分野の文献を乱読しているのであるが、あまりに乱れ打ち過ぎたせいかなんだか混乱している。いったい自分は何を知りたくて、どういったテーマで論文を書こうと目論んでいたのか。そのイメージがどうにもこうにもかすんできたので、それを整理する意味でも最近読んだ本(読みかけ含む)を思いつくままに列挙してみることにする。

『自由と規律』(池田潔、岩波新書)
『視覚はよみがえる』(スーザン・バリー、筑摩選書)
『現代人にとって健康とはなにか』(竹内洋監督、朱鷺書房)
『日本はなぜ敗れるのかー敗因21カ条』(山本七平、角川書店)
『スポーツは「よい子」を育てるか』(永井洋一、生活人新書)
『最新脳科学でわかった五感の驚異』(ローレンス・D・ローゼンブラム、講談社)
『大津波と原発』(内田樹、中沢新一、平川克美、朝日新聞出版)
『「普通がいい」という病』(泉谷閑示、講談社現代新書)
『食育のススメ』(黒岩比佐子、文春新書)
『イチロー・インタビューズ』(石田雄太、文春新書)
『心を整える』(長谷部誠、幻冬舎)

「読み返した本」を除けばひとまずこんなところだろうか。

ふーん、オレってこんな本を読んでいたのか。「おいおい学者のクセに呑気なことを言ってやがるぜ」と思われる方がおられるかもしれないけれど、こうして列挙してみなければ自分が何を読んだのかなんて決してわかりっこないものなのである(とボクは思い込んでいる)。どれだけ読んだのかをいちいち数えているわけでもないしましてや覚えているわけでもなく、むしろ覚えているとすればそれは思わずアンダーラインを引いたり付箋を貼ったりしたフレーズの方である。だから、こうして列挙してみればなんだか変な感じがする。

予想通りというか、それにしてもてんでバラバラである。

いやいやちょっと待てよ、ようく見てみたらそれほどバラバラではないよな。スポーツ、勝負、身体(感覚)、教育。この4つのワードで十分に括ることができるってなもんだよな。『大津波と原発』は枠をはみ出るかもしれないが、師匠が書かれた本なので端から枠内に収める気などない。とにかく出版されれば読むことに決めているから分類せずともよいわけで、でも残りの本を眺めてみたら思っていた以上に類似しているのがなんとも不思議である。ふーん、そういうことか。

とにもかくにも最近のボクはこんな本を読んだ(読んでいる)。ずっと考え続けているテーマである「言葉と感覚の関係性」を頭の片隅に引っかけつつ、この調子で乱読を続けていくことにしよう。



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「空気」への更なる考察(昨日の続き)。 [本・映画などなど]

昨日のブログを読み返す。言葉のつながりが悪くどこか思考が覚束ない様がありありと表出している文章だなと感じた。ふと練習量が足りないままに試合に臨んだときのもたつき具合を思い出し、ああそうかと得心する。やはり文章を書くことにもラグビーと同じで日々の鍛練の継続が必要なのだ。ある新聞社の方も「とにかく書き続けることが大切だ」と、デスクに上がった途端に書かなくなる社員が多い現状を嘆いておられた。「書く」も「動く」のひとつ、つまり身体運動ということだ。

現役晩年には試合前に般若心経を唱えていたと昨日のブログに書いた。試合を迎えるにあたり迫りくる恐れや不安をいなすためにお経を唱えていたというわけだ。当初はあくまでも「いなす」ためであり、それに頼り切るつもりなど毛頭なかったが、人間とは弱いものである。というよりもボクという人間が弱いということで、いつのまにか「お経を唱えること」なしに試合を迎えられなくなった。まるで「お経を唱えること」そのものに恐れや不安を掻き消す特別な効力があるかのようにいつからか思い込んでしまったのだ。

確かにこの思い込みはボクの気持ちを和らげてくれた。高なる鼓動が幾分か落ち着き、ざわつく心には安寧がもたらされて、どの試合にもほぼベストなコンディションで臨むことができた。気分を昂ぶらせて戦闘態勢を整えつつも、内なる心は穏やかな状態。このような状態で臨んだ試合はたとえようのない充実感を得ることができた。試合直後はほとんど記憶に残っていないのだが、徐々に時間が経つにつれて場面場面のプレーが形づくられていくという感覚を、試合後の余韻として心ゆくまで味わうのがボクの楽しみでもあった。

ただこの思い込みには負の側面がある。「お経を唱えること」で心には安寧がもたらされるが、「お経を唱えられなかったこと」が更なる不安を呼び起こすのだ。何らかの理由で試合前の儀式である「お経を唱えること」を行えなかった場合、そこには得も言われぬざわめきが心を襲う。「大丈夫、大丈夫」と自分自身をなだめすかそうにもそう容易に拭い去ることはできない。心のある一部分にべったりと張り付いて離れてはくれなくなる。

たとえば試合中にイージーなミスをしてしまったとする(ノックオンとか)。一度なら偶然だと意識に留まることはないが、立て続けに失敗したときには「そういえば今日はお経を唱えていなかった」という言葉が脳裏をかすめる。こうなると試合の勝利やパフォーマンスの最大化に100%の集中力を傾けることは難しくなる。なぜならそこからは自らの心に張り付いた憂いとの闘いを余儀なくされるからである。まずはこの憂いを吹っ切らなければ相手との闘いに集中できるわけもなく、ハイパフォーマンスは望むべくもない。すべてのプレーに無意識的なネガティブ思考が張り巡らさせるのである。

あまりに頼りすぎることはよくないと薄々は感じていたものの、それでも当時のボクはまだまだ弱い心の持ち主だったから(もちろんまだ今もそうだが)、散々考えながらも辿り着いたのは「お経を唱えること」への固執だった。何が何でもお経を唱える時間と空間を確保しようと躍起になり、どうしても確保できないときはこの試合に限っては仕方がないと思い込むように努めた。(思い込めるはずもないのに思い込もうとしたのは今から思えば「思考停止」でしかない)。

力関係が明確で自チームの優位が予めわかっている試合などはこれでよいのかもしれないが、実力が拮抗する相手と優勝を決める試合となれば「仕方がない」などと悠長なことは言ってられない。何が何でもその試合で最高のパフォーマンスを発揮すべく準備を整えなければならない。どのような情況に置かれようともいつもと同じようにハイパフォーマンスを発揮することが求められる。この要求に応える自分でいるためにはどうすればよいのかと考えたとき、はたと立ち止まってしまった。

「どのような状況に置かれようとも・・・」ということは、つまりお経を唱えられなくともいつもと同じようにプレーしなければならないということだ。それはすなわち「なにかに頼り切る心の働き」そのものを本質的に掘り下げて考えなければならないことを意味する。そうして考えていくと、「お経を唱えること」がよくないのではなく、それを絶対化することにより心の安寧を求めていた自らの弱さが思考を停止させていた事実に辿り着いたのである。

てなことは当然のごとく当時のボクはよくわかっていなかった。朧気ながらに考えてはいたもののここまで明確な論理として理解できていなかった。もしあのときにここまでじっくりと考えることができていたならとてつもなく凄いプレーヤーになってたんと違うかなあ、なんて淡い夢を抱いたりもするが、これもまた今だから言えることでもある(少しくらい夢を見させてください・笑)。

「感情移入を前提とした臨在感的把握」は言い換えれば「信ずる心」ということになる。対象がモノやコトに限らず、たとえ人間であったとしても、その語義においてはそう言い切ることができるのではないかと思う。目に見えないものの存在を浮かび上がらせるという意味では、この「感情移入を前提とした臨在感的把握」は人間の営みにおいてなくてはならない振る舞いのようにも思えてくる。科学なるものへの盲信が甚だしい昨今の社会ではつとに求められている振る舞いだろうとも感じられる。

だからといってそれを絶対化することだけはしてはならない。絶対化することでそこには人為的な思惑が付与され、最低限度の科学的な裏付けも為されていないような「空気」がつくられる。その大気圧が排他的に働けば暴力的な行為につながっていく。少し話は変わるが、各メディアが吹聴する健康やダイエットに関する情報などはまさにその典型ではないだろうか。「健康」を維持するにはそれなりの努力が必要だという「空気」を作り出して不安を煽り、絶対化した自社製品を売りつける。「その商品がなければ生きていけない」という気持ちにさせるべく、営業スマイルで耳障りのよい言葉を並び立てる様にはホントに辟易としてしまう。まさしくここにも「空気」の仕業がある。

では「空気」に飲み込まれないためにはどうすればよいのだろう。これについてはもう少し本を読み込んでみて、自らの経験と照らし合わせてじっくりと考えてから書くことにする。その場の雰囲気を台無しにするという意味でボクたちは「水を差す」という言葉を使っている。山本氏は、「空気」に対抗しうるものとしての「水=通常性」の研究も行っているので、その箇所を再読してから書きます。

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山本七平著『「空気」の研究』を読んで。 [本・映画などなど]

そういえば「とにかく書く」と決めていたのだった。昼食をすませたあと坂を登りながらそのことがふと思い出されてハッとなった。まず書きたいことがあってそれを言葉に置き換えていく、というよりも、まず言葉を連ねることで書きたかったことがかたち作られるというか。コンテンツもオチも気にすることなくまずは書き始めていたあの頃をとても懐かしく感じる。あの頃のようにまた書いていこう。そう、ブログに向かう心持ちの話である。ブログというよりも「書くこと」そのものへの心構えと言った方が正確かもしれない。

というわけで今日は書く。とにかく書こうとキーボードを叩き始めたのであった。

ここんところ本を読むスピードが上がってきた。欲するままに活字を読み続けても頭に入ってくる。ほとんどは読み終えた途端に忘れてしまうのだけれど、似たような話を誰かとしている時や、それと似たような内容の本を読んだ時にはムクムクと記憶貯蔵庫から湧き出してくる。本質のところでつながっていれば同じような記憶はいくらでも辿ることができるということだろう。言葉の上っ面を覚えるだけでは限界がある。意味は二の次にしてとにかく暗記することももちろん大切なのだけれど、それだけでは不十分だ。その言葉にどのような意味があるのかに少しでも想像を働かせるだけで、「それってあれのこと?」「それならこれもそうだだろう」と連鎖的に記憶がよみがえってくる。オレってこんなにものごとを知ってたっけっという気持ちになり自信の水かさが増す。

というわけでここんところ手当たり次第に乱読している。前期の講義が終わったことで精神的な余裕が生まれたのかもしれない。山本七平著『「空気」の研究 』は2度目の通読。かつて「KY(空気を読めない)」という言葉が流行したが、その「空気」に関しての研究論文である。「感情移入を前提とする臨在感的把握の絶対化」が空気を作り出す。その空気に抗うことは一筋縄ではいかない。かつての日本が太平洋戦争に突入したのもこの「空気」の仕業である。ならばこの「空気」の正体を明確にすれば同じような失敗を避けることができるのではないか。いや、この「空気」の正体をきちんと把握しておかなければまた同じ過ちを繰り返すことになるだろう。著者は前書きでそう述べている。うん、まさしくその通りだ。

これがね、とてつもなく面白いのです。おそらく日本人ならばこの「空気」の存在は認めざるを得ないのではないかと思う。なぜならあの時代にあれほどまで「KY」という言葉が流行したからだ。「空気」という存在を実感していなければあれほどまでに流行することはなかったはずだ。普段の生活の中で私たちが感じているなにかがあって、言葉が宛がわれることでそのなにかは表象する。「KY」はまさしくそのなにかにピンポイントでヒットした。

この「空気」を醸成するのは先ほども書いたけれど「感情移入を前提とする臨在感的把握の絶対化」。「鰯の頭も信心から」というように信ずる者はたとえ鰯の頭であっても崇めるようになるというが、「感情移入を前提とする臨在感的把握の絶対化」はまさしくこのことである。鰯の頭は鰯の頭でしかないにもかかわらず、その背後に有り難い御利益が潜んでいると信ずる者にとっては崇める対象となる。つまり、鰯の頭には有り難いご利益が臨在していると理解し、それには思いこみとも呼べる感情移入が前提とされ、だから周りがなにを言おうとも鰯の頭を絶対化する。やがてその鰯の頭に自らの生活や生き方が支配されていく。本来的に人間には備わっているこのような心の癖が「空気」なるものを醸成する。

やがて鰯の頭を拝む人たちは個々の深奥にかすかに芽生えつつある不安を解消すべく、ご利益があるからお前らも手を合わせろとお節介を焼き始める。たとえばその場に居合わせた人の大半が鰯の頭を拝む人たちで占められれば、その場には独特の「空気」が作られて少数派の人は為すすべがなくなる。この人たちは、「手を合わさずにはいられなかった」「断れる雰囲気ではなかった」などという言い回しでおそらくその場のことを回想するに違いない。その言い回しこそがまさに「空気」が作られていることの証左である。ちなみに青木雄二の『ナニワ金融道』を読んだことのある人ならヒビワレックスのセミナー風景を想像してみればよい。あのような状況におかれたならほとんど誰しもがその場の「空気」に流されてしまうだろう。灰原ほど冷静でいられるのなら話は別だが。

閑話休題。

でもね、この「空気」を自分自身の身近な問題に置き換えながら掘り下げていくと、やがては「宗教」へと続いていくような気がするのだ。信仰心へと通ずるというかなんというか。ある特定の宗教、宗派を信ずるという意味での信仰心というよりは、人は何かを信じなければ生きられないというより大きな意味での「信ずる心」ということである。身近なところではジンクスなんかもあてはまるだろう。何かを信じようとする心性は、ゆき過ぎるとその信ずるモノの背後には何かが臨在するという勘違いを生じさせる。

思い起こせば現役時代も晩年は、試合当日、ホテルを出発する前には必ず般若心経を唱えていた。高まる緊張を抑えるためでもあり、恐怖にのまれないためのボクにとっての一つの儀式だった。わずか10分ほどの時間だったが目を閉じて声を出していると心が落ちき、ボクにとってこの時間はなくてはならないものになっていた。

ただ試合はいつも同じ会場で同じ時間に始まるわけではない。地方で行われる試合もあるし、そうなるといつもと勝手が違ってくる。宿舎を出発する時間も朝食やブランチをとる時間も変更を余儀なくされる。試合会場によっては2人部屋になることもあり、そうすると試合前にひとりで過ごす時間が作れないことだってでてくる。

そのときにふと感じたのは心は脆いなあってことだった。「般若心経を唱える時間がないからこれほどまでに緊張と恐怖で心が揺らいでしまっている」という思いが芽生えた時にそう感じたのであった。普段ならばひとりの時間が確保され、その時間で心を落ち着かせてきた。それは心のどこかで般若心経には心を落ち着かせる効能があると信じ込み(つまりこれは感情移入した臨在感的把握の絶対化だ)、自らでこのような「空気」を作り上げて心を落ち着かせてきたということである。だがいざその時間がなくなれば、鎮静作用のある(と思い込んでいる)般若心経を唱えられないことがさらなる不安と恐れを生じさせることをボクは経験した。

「信ずる心」にはこうした一面がついてくる。というよりもボクたちの心にはこのような癖があるということだと思う。何かに頼れば楽になるが、その頼ったモノや人を絶対化してしまえばやがてそのモノや人に支配されることになる。心を落ち着かせるために唱え始めたお経も、それなしではいられないほどに絶対化してしまうと心は波打つばかりになる。

この本はただ「空気」のことを知るためにあるというよりも、「空気」の本質について考えることによりたくさん気付きに出会うことができる。本当にオモシロイ。このような文章がおそらく本質的な意味における研究論文なのだろうとボクは思う。多分これから何度も読み返すはずだ。「空気」、「信ずる心」、それに「感情移入を前提とする臨在感的把握の絶対化」についてしばらく考え続けることにしよう。




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『人間の建設』から『他者と死者』へ。 [本・映画などなど]

『街場の大阪論』 (新潮文庫) を買うためにぶらりと立ち寄ったジュンク堂で『人間の建設 (新潮文庫) が目に留まる。殺伐としたタイトルに「ゲッ」となったのが正直なところだが、小林秀雄と岡潔という名前が目に入った瞬間に「オオッ」となり2冊重ねてレジに持っていく。そのままエスカレーターを降りて喫茶店に入り、待ち人が来るまで読み進める。そしてその翌日も読み進めた。

ちりばめられたカッコイイ言葉にしびれまくりであった。それをいくつか書いておこうと思う。

まずは無明ということから。「人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明(岡)」と言い、「人は無明を押さえさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができる(岡)」のだと言う。学問的なるものを批判する文脈で語られるこの無明は仏教用語でもあり、迷いを意味している。迷いを受け止めることでやっていることが面白くなってくるというのはとても得心するが、同時にその境地からいささか隔たったところにいるであろう今の自分にとっては耳の痛い話である。この「迷い」はウチダ先生が言うところの「ためらい」とほぼ同じ手触り感がして、ぐるりと一周して少し登れたような実感にホッとしてもいる。

次に、今の日本では個性が重んじられていないという文脈で「本質は直感と情熱でしょう(岡)」とも言っていて、批評家であれ詩人であれ「何かを創ること」の本質は直感と情熱であって、それはつまり勘がはたらくということに他ならないのだという。「…勘は知力ですからね。それが働かないと、一切がはじまらぬ。それを表現なさるために苦労されるのでしょう。勘でさぐりあてたものを主観の中で書いていくうちに、内容が流れる。それだけが文章であるはずなんです(岡)」との言葉は、ボクの身体の真ん中を貫くに十分であった。確固たる根拠を列挙しなければならない環境ではこうした勘が育つわけがない。どうしたものか…。これは学生のためにも自分のためにも考えるべきことで、いつの時も念頭においておかねばならぬことだぞとやる気が湧いてくる。

驚いたというか、半ば想像はしていたのだが、数学者である岡潔が語るのは、感情、感覚、直感、勘などの目に見えないことばかり。以下の言葉からも岡潔がいかに目に見えないものを大切にしているのかが窺える。「そのことは、数学のような知性のもっとも端的なものについてだっていえることで、矛盾がないというのは、矛盾がないと感ずることですね。感情なのです。そしてその感情に満足をあたえるためには、知性がどんなにこの二つの仮定には矛盾がないのだと説いて聞かしたって無力なんです。…人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです(岡)」。ボクたちは矛盾に対峙した時、誰もがわかる根拠を列挙しようと躍起になるけれど、それには何の意味もないと岡は言っている。矛盾を突破するために知性は役に立たない。これは本当にその通りだなと思う。その通りだなと頭では容易に理解できるのだけれど、これがなかなか難しい。なぜならあまりに当たり前なこと過ぎるということと、現代社会では発言するものに確固たる根拠を示さなければならないという信憑が刻一刻と広がりつつあるからである。だから不用意に日々を過ごしているといつの間にか知性で矛盾を解決する習慣ができてしまい、それに伴って積み重なっていく徒労感に精神や心が疲弊してしまうのである。こうした言葉をたえず浴びていないと大切な何かを失ってしまうのだ、きっと。

これ以外にも、「情緒というものは、人本然のもので、それに従っていれば、自分で人類を滅ぼしてしまうような間違いは起さないのです(岡)」は、“頑張らなければできないことはそもそもしない”というあるときに師匠と四国の守さんが口にしていた言葉とつながるし、「時間というものは、強いてそれが何であるかといえば、情緒の一種だというのが一番近いと思います(岡)」からは『他者と死者―ラカンによるレヴィナス』の内容がふっと浮かんだ。それでパラパラと読み返すとビンゴな箇所を発見したのでそれも引用しておくと、「これに対して、もう一つ未来から過去に流れる時間意識というものを私たちは想定することができる。ハイデガー的に言えば『時熟』する時間意識、ラカン的に言えば『前未来形』で生きられる時間意識、レヴィナスの術語で言えば『他者のための/他者の身代わりの一者』の時間意識がそれである。それは『私についての物語を語り終えた私』を想像的な起点として今ここを照射するような、逆送する時間意識である(169頁)。」

時間って不思議だよなあと漠然と考え始めたのはおそらく5年ほどまえになるが、こうして時間に対する考え方が重層的になるにしたがって思考の幅が広がったように感じている。今ここを生きている生身の人間が感じられる時間意識というのは、過去→現在→未来と単純に流れているのではないということ。この時間の転倒すなわち「時間は情緒であること」が完全に腑に落ちるまでにはまだまだ時間がかかるにしても、こうした言葉に触れるたびに思い出しては何度も反芻することが大切なのだ。いつ腑に落ちるのかは定かではないが、いつかは必ず腑に落ちるという確信はある。ただの勘だけど。

なんてことを考えながら読み進めたわけだが、お二人がドストエフスキーとトルストイについて語り始めたあたりからボクの頭ではついていけなくなり、そこで本を閉じる。二人の違いを語られても彼らをほとんど読んでいないボクにとってはちんぷんかんぷんであった。またいつか読もう。そのいつかは今晩かもしれないし、来月かもしれないが、まあいい。

いずれにしても世の中にはものごとを根源的に考えている人がいる(いた)。今のボクはその事実にとてもとても勇気づけられている。さあ帰ろう。



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邪悪なものよ、しずまれーい。 [本・映画などなど]

今まさに『邪悪なものの鎮め方 』(内田樹、木星叢書)を読んでいる影響からか、身の回りに存在する「邪悪なもの」への感度が上がっている。さほど注意を払わなくてもそこらあたりに「邪悪なもの」が存在している現実に、とても驚かされる。「邪悪なもの」が邪悪であることに気がつかなければ、いつのまにか私という存在に忍び込んでじわじわと身体を蝕んでゆく。「邪悪なもの」を邪悪なものとして感知するにはそれだけ身体感受性を高めておかなくてはならないが、ただ高めるだけでは「邪悪なもの」の邪悪性に耐えきれずに破綻する。あくまでも身体感受性を高めるのは「邪悪なもの」を邪悪なものだと認識するためであり、それは「邪悪なもの」を邪悪であるとはっきり認識できればそれなりの対策を練ることができるからである。

殴られれば鼻血が出たり痣ができたりするから、こうした「目に見える悪意」は比較的対処が容易である。しかし、満面の笑顔を持って話術巧みに襲いかかる「目に見えない悪意」は対処のしようがない。今まさに襲いかかってくる悪意が悪意であることに気付かなければどうしようもなく、それから時間が経過して自らの身に何か問題が起こった時に、初めて悪意だと気づくケースがほとんどである。あーこわ。

だからといって「邪悪なもの」に警戒心を働かせながら毎日を過ごすわけにもいかない。なぜなら「邪悪なものに警戒心を抱く」という緊張状態がすでに「邪悪なもの」だからである。精神状態を高ぶらせていついかなる時も気を抜かないという状態は、心身にとってよいわけがない。そんな状態で毎日を過ごせばいつの日か精根尽きはててしまう。

「ほな、どないしたらええんでっしゃろか」ということになるが、この問いの答えは自身が思考を繰り返した上で掴む以外に方法はないだろうと思う。それの手引として『邪悪なものの鎮め方 』を読むことをお薦めする。おそらく今もボクに向かって「邪悪なもの」は容赦なく襲いかかってきているのだろうが、「邪悪なものを鎮める」という姿勢に人間の人間性が宿るのだからそれほどボクは気にしちゃいない。「邪悪なもの」がボクを襲っているなんてことなどあるわけがないと意識から外してしまう方がとても恐ろしい。

なぜこんなことを書く気になっただろうと振り返れば、あの日にある人から驚くべき暴力的な言動を浴びせかけられたことが脳裏に浮かぶ。「ああ、そうか、あれか」と平然と装うのはあくまでもフリをしているだけで、このブログを書き始める前提にそのことは無意識的に気付いていたのだろうと思う。あの日の言動がボクのどこかを揺さぶったのは確実で、不快を通り越して憤りにまで達するに十分だったこの揺さぶりを取り除くためにおそらくボクはこのような文章を綴っているのだろう。まさに邪悪なものを鎮めるために。

本当に世の中にはいろんな人がいる。

「ええ加減にせえよ」という一言が言えればどれだけ楽になろうと思うも、「それを言っちゃあおしまいよ」という気持ちもあって「ああ」とつぶやく他ない。「ええ加減にせえよ」という気持ちをグッとこらえたら「いっちょやったろやないか」となんだかやる気が湧いてきた。こうなったら「ええ加減にせえよ」という気持ちをせっせと燃やして研究や教育に勤しんだろやないか。

という感じに鎮めることができればいいのだが。


 
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ダラダラとしながら最近読んだ本を顧みる。 [本・映画などなど]

すっかりと更新が滞ってしまったが何も今に始まったことでもないので、断りもなくさらりと書いていきたいと思う(という風に断っているのだけれど)。

鼻炎続きで少しばかり体調が芳しくなかったこともあって、今日はゆったりと1日を過ごした。本日は奈良県立図書情報館で内田先生の記念講演があり、是非とも足を運びたく考えていたのだけれど、ここんところの体調の悪さに断念してしまう。「ああ残念」と落胆しつつも、昨日の甲南麻雀例会には喜び勇んで駆けつけた次第であるから体調の悪さもたかが知れている程度なわけで、何ともワガママな僕なのであった。

というわけで今日はほぼ1日をダラダラと過ごし、夜は一人鍋でたっぷりの野菜を食したおかげで、鼻水の出具合が治まりつつある。カラダを休めることができたし、外食続きで偏りがちな栄養を補えたという意味で身体が回復したという部分もあるだろうけど、それよりも精神的にリラックスできたことの方が今の僕にとっては大きなことのように感じる。緊張と緩和のバランスが崩れるとひたすらに「意欲」が枯渇してゆくような気がするのは僕だけだろうか。この「意欲」は、具体的な何かに向けられるような性質のものではなくて、ただ漠然と生きることに能動的に関われるかどうかを左右するものというかなんというか。積極性、アクティビティ、エネルギー、精気などと言い換えても差し支えないようなもの。

腹の奥の奥でぐつぐつと煮立っているような何ものかがあって、たぶんその何ものかが、他人との関わりが関わり合っている日常生活に「意欲」をもたらしている。「意欲」の元となる、腹の奥で煮立っているその何ものかは、薪をくべたりして定期的に加減を調整しないと空焚き状態となる。世知辛い社会のあれこれと少しばかり距離をおき、じっくりと向き合う必要があるのだ、その何ものかと。身体は正直だから、この作業を怠るとたちまち不具合が生じてくる。心が荒立つのか、カラダに変調を来すのかには個人差はあっても、とにかく身体のアライメントが狂い出す。今日という一日は、身体のアラインメントを整えるための一日だったのだろうと、今、この時間になってそう感じるのである。

というか、ここまで気ままに筆を滑らせた内容は、ダラダラと過ごしてしまった一日を肯定的に解釈したいがために考えたことなのだが、なかなかいい出来映えであると自画自賛している。これで今日という日が僕にとって素晴らしい一日となったわけである。言葉というのは本当に有り難いもので、ひとたびこうして物語が編まれると途端に救われた気分になる。

さて、ここからは話題を一気に変えて、最近読んだ本や読み進めつある本についてあれこれと書いておくことにしよう。

この前にも書いたけれど、今の読書生活で中心的に読み進めているのが『坂の上の雲』である。日常的な仕事量に圧されて読むペースが遅くなりつつあるのだが、すっかりとハマっている。今月の29日からNHKで始まるドラマも楽しみにしている。読めば読むほど、これまで生きてきた中で「明治以後」とか「日露戦争」とかいう言葉を口にした自分がとてもとても恥ずかしく思えてくる。その実態を何にも知らないままに口にしていた自分に赤面する他なく、そして自分という人間はものごとをこんなにも知らなかったのかという紛れもない事実に肩を落とし、何にも知らないままにこの歳まで生きてこれたことの奇跡に冷や汗が出る。

「圧倒的な知性」というものがどのくらい圧倒的であるかを測ることはできないけれど、とにかく圧倒的であるということは察することができる。その奥行きというものに眩暈がするほどの感動を覚えてページをめくっているというのが、今の心境である。

僕にとっての読書という行為は同時並行的であって、「これも読みながらあれも読む」という具合である。まだ読んでいる途中の本があるけれど面白そうだからこの本も読み始めてみよう、ということに割と平気なので、いろいろな本に手をつけることを厭わない浮気性である。だから『坂の上の雲』を読み進めながら他の本にもちょくちょく手を出していて、ついこの前に発売された内田先生の『日本辺境論』(新潮新書)は既に読み終わって2度目に突入している。おそらくそのほとんどを僕は十分に理解できていないので、その内容について語るのはとてもためらわれるのだけれど、「読み手により汲み出しうる叡智は無限にある」という師から受け継いだ教えにしたがってあれこれと述べてみることにすれば、読みながらに感じたのは「オレって典型的な日本人やなあ」と得心することしきりで、ここんところ考えに耽っていたことのいくつかがスッと腑に落ちた。

考えに耽っていたことの一つは、大学教員としてまだ経験の浅い僕が学生に対していったい何を話すことができるのかということ。文献を読み耽って、取ってつけたような話をしたところで実感のこもった内容を講義できるはずもなく、講義を終えた後に襲ってくる得体の知れない無力感をどう受けとめればいいのかに実のところ悩み続けていたのだが、それはつまり、解決するソリューションを自分の外部に求める辺境的な思考の負の側面であることがわかったのである。

自分の中にあるいろいろな経験やそれに基づく考えが仮初めで、もっと優れた考え方が外部にあるという思いに囚われると意識が外に向く。どんなことでも吸収してやろうという姿勢は好ましいが、それが行き過ぎると自信の喪失に繋がってしまう。根拠とすべきものまでをも外部に求めれば自分への信頼が揺らぐことは明白で、自己の存在がどこか宙に浮いたような感覚に襲われるのも無理はない。

たぶん、こんな状態になっていたのだと思う。
あくまでもたぶんだけど。

だからもっと自分自身の中を掘ってみることにする。
そうやって意識を切り替えたことでちょっと楽になったのである。

なので読み終わるや否やまた1頁に戻ってしまった。
内田先生の本は体感的にきく。エキサイティングに過ぎるのである。

それともう一つ読みながら強く感じたことがあって、それはスポーツの世界に蔓延している言説についてである。たとえばラグビー界では世界に追いつけ追い越せと画策し、代表強化を目論んでいるが、その語り口はまさに辺境人的な思考であり、やれニュージーランドではどうだ、オーストラリアではこうする、いやいや北半球的にはこうだよ、などという言説にその徴候がある。外国人のプレーヤーに「助っ人」という言葉を宛がうこともそうだ。その点からいうと、あらゆるスポーツの日本代表は諸外国にキャッチアップすべく強化策に取り組んでいる。まるでどの国もそのように強化しているのだと思い込みながら。

このあたりをちょっと踏み込んで考えていけば面白いだろうと思う。強化策がスポーツ科学に偏り過ぎていることも含めて、今後は考えていきたいテーマである。

他には『噛みきれない想い』(鷲田清一、角川学芸出版)も読んだ。鷲田先生の言葉は心の琴線に触れる。心がポカポカ暖かくなる。また読みたくなる。流れるような言葉の連なりやリズムに僕はすっかりと惚れている。選ばれた言葉の語感がたまらなく愛おしい。その愛おしさを何と表現すればよいのかには思わず頭を抱えるが、たとえるならば心身の疼きが落ち着くような感じである。

それにしても読書の旅は果てしない。1つわかれば3つのわからないことが生まれるような気がする。いや、3つどころか10も20もわからなくなる。それを繰り返すわけだから、読めば読むほどわからなくなってトホホとなるのだが、トホホとならなければわからないことが世の中にはあって、それがわかった瞬間が何ものにも変えがたいほどに心地よい。だから少々わからないことが増えようが何も問題はない。というか、たぶん世の中にはわからないことばかりが揺らめいているのだ、きっと。その世の中を生きていかなければならないわけだから、わからないことだらけのカオス状態に生きる覚悟をすべきなのだ。

そうしたカオス状態の中を生きていくためには、わずかばかりの確信が必要となる。信念の元になる確信というか。つまり、全身全霊を込めて「これはこうなんだ」と言い切れること。これだけは譲れないというもの。たぶん僕はこれを見つけるために果てしない読書の旅を続けているのだろうと思う。

さて、また1週間が始まる。
世間は休日だけれどうちの大学は明日は講義日。
がんばっていこう。


日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

  • 作者: 内田 樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/11
  • メディア: 新書

 

噛みきれない想い

噛みきれない想い

  • 作者: 鷲田 清一
  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2009/07/10
  • メディア: 単行本

 


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美しい言葉は素敵だ~BRUTUSを読んで。 [本・映画などなど]

おそがけに帰り着いた昨夜。やや強い疲労感があったので、ぬるめのお風呂にゆっくり浸かることにした。この週末はよく飲んだよなあ、少し鼻炎気味なのもそのせいだろうなあ、などと考えながら湯を張り、雑誌BRUTUSを片手に湯船に浸かる。たまに銭湯に行くことはあっても、本や雑誌を持ち込んで少し長い目に入るお風呂が僕にとっての日々のリラックスタイムなのだ。

ふと訪れた書店で「美しい言葉」と筆で書かれた表紙に目がとまり、たまたま購入したBRUTUSはとても刺激的であった。Twitterなるものがこの世に存在していることも勉強できたし(これまで知らなかった)、村上春樹について書かれた高橋源一郎さんの文章は、これまでの僕には全くの無縁だった文学の世界をおぼろげながらにわからせてくれた。正確にいえば、村上文学が文学の世界においてどのような位置を占めているのかが、なんとなく理解できるに至ったということだ。

近代文学最大のテーマであるセックスと死を全否定し、近代文学の徹底的な批判者として登場したにもかかわらず、結局のところ近代文学の最良の後継者となったのが村上春樹であり、彼は「生き方の提示」という最大の仕事を引き継いだのだとの高橋氏の言葉には、文学とは何ぞや的な問いをこれまで一度も考えたことのない僕ですら、わかったような気になった。いずれすべての村上春樹を読破せねばならないと、改めて決意を固めた次第である。

職業作詞家も紹介されていて、松本隆が作詞した木綿のハンカチーフを初めて活字で読んでみて感じたのは、率直にええ歌やなあという印象であった。都会に出て行く男と田舎に残された女の、せつないまでのすれ違いが軽快なリズム感の中に表現されている。僕がこんな風に評論するのもおこがましいのだが、とにかくなんだかグッときた。風呂上がりに開脚してストレッチしているときに読んだ箇所だったので、身体がリラックスしきったところで気分もよく、ついついメロディを口ずんでその世界に浸っていたのだった。

そしてそして、久しぶりにこうして肩の力が抜けた感じでブログに向かえるきっかけになったのが「橋本治の、よくわかる美文講座」である。美文とはどういうものであるかについての内容なのだが、“美文は「余分な知識」でできている”という箇所に目から鱗がボロボロと落ちた。というよりも、忘却の彼方に置き去りにしたままだったことが瞬時によみがえったという感じである。ああそうか、僕はなにか意味のあることを書こう書こうとし過ぎていたのだな、とにかく為になるような話を書かなくてはいけないと、書けもしないくせに力んでいたのだなと、感じたのである。

そんなことはとっくの昔に気付いていた。そう、薄々は気付いていたのだ。でもね、あくまでも薄々に気付いていただけで確信は持てなかったし、こうした種類の確信は自分一人では決して得ることのできないものなのである。自分以外の誰かによって、誰かの言葉によっていとも簡単にブレークスルーできるにもかかわらず、自分自身ではどうにもできない状況というのがある。そんな状況の中で行きつ戻りつしていた僕の背中を、橋本氏の言葉がバーンと押してくれた。そんな気がしている。

書き手の主観的にはどうでもいいことだ認識している知識は、実のところはどうでもいいことなんかではなくて、どこぞの誰かにとっても、はたまた一巡して戻ってきた自分にとっても、どちらにとっても極めて楽しげで生きていくうえで大変に必要不可欠なことだったりする。たぶん、そういうもんなのだ。

僕の「どうでもいいこと」は、意外にもみんなにとっては「どうでもよくない」ということ。いつぞやに強く自分の中で意識していた事柄だけに、なぜ失念していたのだろうかという問いもまた自分の奥深くにあるところを掘り下げていくためには面白いテーマになりそうだが、話が複雑になるのでここではやめておくことにしよう。何が有用であり、何が有用でないのか、ということをまだまだ未熟な自分が十全に判断できるはずもなく、まだまだ未熟な自分が判断できるものだけしか判断できないのだから、その判断によりもたらされた結果は得てしてつまらないものになるに決まっている。だって未熟な自分が決めたことなんだから。そこんところは自覚しておかないと、ついつい調子こいてしまうのがオレって人間だ。

ではどうしたらいいのかというと、とにかくありのままを書くしかないのだ。ありのままの自分が考えたり悩んだり、くよくよしたり喜んだり、なんだかんだと感情が動いたものについて書くしかないのである。これまではたぶんそのようにして書いてきたはずであるが、いつの頃からかええ格好しようとして、できもしないのにきれいに書いてやろうなんてことを目指していたのだろうと思う。もちろん無意識的に。どこかなんとなくわかったふりをしていて慢心気味だった自分も、これまでを振り返ってみて見つけることができるから「ああ自己嫌悪」である。

橋本氏は、美文とは「自分から距離を置くこと」であり、美文は「自分にはわからない文章である」とも述べている。なるほどなあと改めて納得を得る。というか、過去に一度は触れたことのある感じが思い出されて再び「あー」となる。

自分から距離を置くには、ひとまず自分がどう思われるかについての意識を棚に上げることだと僕は解釈している。つまりは自分を含めた世界を俯瞰的に眺める視点から書くということであり、「ここにいるこのオレが書くのだ」という意識を薄める必要がある。なかなか難しかったりもするのは、心が安堵感に満たされてなければキツイってところである。周りにいる親しい人間からある程度の承認を得られていなければ、自分と距離を置くことってできないというか、難しい気がする。だからどうすればいいのかと聞かれると答えに窮するのだが、僕はそうなんじゃないかという気がしている。

自分にはわからない文章というのは、とにもかくにも書きながら考えていくことから逃げないで、言葉ひとつひとつをこうして積み上げていくことによって結果的にできあがる文章のことだろう。起承転結がしっかりしていて、オチまでしっかり見渡せる文章というのではなくて、普段の生活の中で感じた違和感をもとに、その時に感じた感覚みたいなものをたよりに手持ちの言葉でそれを表現しようと書かれた文章だ。書きながらに自分で考えているのだから、ある意味で出来立てほやほやの考えでもあるし、もちろん書いている途中は自分が何を書いているかなんてことが理解できるはずもない。

ああ、思い出した。こうして書きながらに思い出した。
こうやって書いてたよな、これまで。うん、間違いない。

どんどんどんどんブログから遠ざかっていくのがなぜだかよくわからなくて、そのわからなさに苛まれてさらにブログから遠ざかるような気になっていた。それがやがては書くという行為からも離れていくような不安になり、書くってどれだけ億劫なんだろうなんてことも脳裏を過るまでになっていたのだけれど、こうして書いてみて少し落ち着いた。

美しい言葉たちに僕は救われた。
ちょっと長かったトンネルから抜け出せた。
またこれまでのように書いていこう。
そんな気持ちになっている今の自分をとても気に入っている。

はー、なんだかすっきりした。
それにてしてもまさに美しい言葉だったな。




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「共通感覚」。 [本・映画などなど]

共通感覚論』(中村雄二郎 岩波現代文庫)を読んでいる。まだ第1章も読み終えていないが、哲学書というのは「想像力を馳せながらのらりくらり読むもの」だと思っているので、ほどよいペースで進んでいるものと自覚している。

「臨床の知」という概念を知り、スポーツ科学の捉えなおしという作業が前に進むぞという手応えを得たことに続いて、「共通感覚」という概念がスポーツ教育の捉えなおしという作業を前に進める予感がしている。いや、確実に進めることになるだろう。その末席に身を置かせていただいている動感感覚研究会におけるキーワードの「身体知」に通ずる概念でもあって、今後の展開を想像してとても興奮している。

すごいことを考えている人が世の中にはたくさんいるのだ。こんな当たり前に当たり前なことに想像を働かせる気もなかったあの頃の僕を思い出せば、とてもとても幼く思えてきて赤面してしまう。ま、その時はその時で必死になって取り組んでたわけで、その頃があって今があるわけだから、逆にとても愛おしくて懐かしかったりもするっていうのが本音ではある。人の気持ちってそう簡単に割り切れるものではないわけで、ラグビー選手の寿命が60歳とかだったら確実に現役選手を選択していただろうしね~。

ま、そんなわけにはいかないのだけれども。

さて、ごく端的に言ってしまえば、いわゆる「共通感覚」とは、人間に備わっている諸感覚、たとえば視覚とか聴覚とかの五感も含めたあらゆる感覚の統合による総合的で全体的な感得力のこと。ラグビーにたとえるとすると、絶妙なパスを通しまくるセンターやタックルを受けながらのオフロードパスがうまいバックローなんかは、知ってか知らずかこの「共通感覚」を駆使していると考えられる。

ラグビーでは自分の後ろのいる味方にしかパスすることはできない。だから、パスをもらおうとする選手は声を出して自らの存在をボール保持者に知らしめようと努める。ボール保持者は後方から聴こえた声を判断材料の一つにし、また相手選手を引き付けるべく目などで間合いをはかり、背中全体で感じられる気配感みたいなものからパスを放るわけである。味方を目で確認してからのパスは、顔の向きやその動きで相手選手に悟られるので、相手を撹乱するような効果的なパスは原則的にノールックとなる。まさに諸感覚を前に後ろに向かって研ぎ澄ませているわけで、これこそ「共通感覚」ということになる。

この「共通感覚」は、何もスポーツ現場に限ったことではなく、私たちの生活場面においても散見される。というか人間として根源的な能力と断言しても過言ではないだろうと思われる。

たとえば「察する」ということ。人間関係において明確で鋭利な言葉をなるべく使わず、物腰の柔らかい言葉をやんわりと交わしながら相手の真意を探るときには「察する」という言葉があてはまる。一つの言葉や一つの何らかの動作に居着くことなく、ボワーンとした雰囲気で構えることによってしかわかりえない境地がそこにはあり、相手の気持ちを素早く察し、その場にふさわしい行動をとるにはまさに「共通感覚」という視点が必要となろう。人として成熟するということにも繋がっていく。

「共通感覚」に関することはあまり深入りを避けておくことにする。というのもまだ読み始めたばかりで細かな点を把握するまでには至っていないからである。アリストテレスのセンスス・コムーニスを源流とするコモン・センスと、そのコモン・センスの側面である「共通感覚」と「常識」との関係について、さらにはその「常識」という概念を構成する二つの相反する視点について、もう少し理解を深めてから述べてみることにする。

頭に入り、身体を通じて、言葉として出力される(もしくは体現できる)。この一連のプロセスによってしか到達し得ない境地がある。うん、そうに違いない。

それにしてもいつも感じることだが、読んでいる最中は「うんうん」と頷きながら理解できているように感じられても、いざこうして書きはじめるとまったくと言ってうまく書けない。言葉にするというのはまさに身体的な行為なのだろう。この点はラグビーで存分に味わった感覚とほとんど同じだ。あー、書くってことはしんどいし難しいものだ。でも楽しい。

さあ、帰ろう。




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汗だくボイジャーと『1Q84』。 [本・映画などなど]

エアコンが故障したままのボイジャーに乗って先ほど大学に到着。エアコンの故障は2か月ほど前に発覚したものの、あまりに高額な修理費に戦いてそのまま放置しているのである。そろそろ梅雨が明けそうな気配で、いよいよ本格的な夏が始まろうとしている。エアコンなしでこの夏を乗り切れるとは思っていないが(すでに今日も汗だく)、来年2月に車検が控えていることと、購入から9年目を迎えて11万kmに届こうかという現状を踏まえれば、買い替えということも視野に入れながら考えなければならない。しかしながら、さしあたって欲しい車もないし、買い替えるにしたところでまとまったお金がかかる。どうせ買うのならばゆっくりと考えたいところだが、7月は水泳実習やら試験やら成績やら補講やら対談の司会やらで、気持ち的な余裕がまったくない。

このまま車を手放してみる?よくよく考えてみればそれもありかもしれない。しばらく車に乗らない生活をしてみるのも、「低燃費って何?」と叫ぶ日産のハイジのうっとうしさを思い浮かべれば、ありかもしれない。それと同時に最後の最後まで乗り切りたいという想いもあって、なかなか複雑なところである。経済的な面を度外視してみればたぶん乗り切る道を選択するだろう。9年も乗れば愛着も湧くというもので、それ以上の何か特別な感情が芽生えていることも確かである。大げさに言えば、自分の手足となっているとも言えるわけで、引退を機に身の回りの環境が大幅に変化した現在を鑑みると、環境の変化は必要最低限にとどめておきたい衝動にも駆られる。

とにかく。もう少しこのまま放置しておくことにしよう。暑くて暑くていてもたってもいられなくなれば自然発生的に行動するだろうという、投げやり的で楽天家ぶった態度でいることにする。

さて、遅ればせながら村上春樹『1Q84』を先日読み終えた。
もともと好んで小説を読むわけではなかった僕が村上春樹を読み始めたのは、内田先生とアオヤマさんの影響を受けてからである。『村上春樹にご用心』の中で内田先生が語る村上春樹に人物的な魅力を感じ、お酒を飲みながらアオヤマさんから聴いた話から村上春樹が語る物語への志向性が芽生えた。小説よりも思想書が好きだったこともあるのかないのか、『ねじまき鳥クロニクル』と『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の読後は不思議な感じが心に残響し、そのままこびりついたままで今もその不思議な感じは心のどこかにじっと居座っている気がする。

村上春樹という作家の評価は賛否両論なのだと言う。こき下ろす人もいれば村上春樹が紡ぐ物語にすっかり虜になる人もいる。そうした現象を踏まえながら、「なぜ村上春樹の文学は世界性を獲得したのか?」と言う壮大な問いに向き合ったのが『村上春樹にご用心』であった。村上文学について内田先生が語る言葉は僕をいちいち納得させた。まだ村上春樹の小説をまともに読んだことがない僕であっても、内田先生の書かれた言葉が腑に落ちるのである。まるでまともに村上春樹を読んだこともない人間が、村上春樹を語る言葉にいちいち得心を得るという現象そのものが、村上文学が世界性を獲得するに至ったことを立証している気がする(僕が内田先生を師事しているということももちろんあるが)。「世界性」という言葉を「閉鎖的な集団や共同体の超越」という意味に解釈すれば、村上春樹に詳しい人もそうでない人も、肯定的にとらえる人もそうでない人も、それぞれを巻き込みつつ渦が広がりつつあることに想像が至る。もっと広げて言うなれば、善や悪といった両極な価値観の境界をも超越していっている。たぶんそういうことなんだろうなと、限りなくど素人な僕としては感じているのである。

さてさて『1Q84』。あまりにたくさんのメッセージが込められていて一度読んだだけではそれらを拾いきれるはずもなく、だからこうしてかんたんに感想を書くことがためらわれるのだが、今こうして書きながらに一つ頭に浮かんだのは次の言葉である。

“説明しなければわからないことは説明してもわからない”

確か、天吾が施設にいるお父さんに会いに行った時の二人の会話で、お父さんが語った言葉である。読みながらもズギュンと心を突き刺したのだけど、今こうして改めて書いてみてもホントにその通りだなあと納得感が増す。僕がこの言葉から喚起されるイメージのひとつに、「私たちが生活の場でやりとりしているのは言葉そのものではなく、言葉を通じた何ものかである」ということがある。その「何ものか」は言葉で直接的に表現することはできず、身体同士が共鳴する場でしかやりとりすることはできない質のものである。その共鳴する場にはもちろん言葉も含まれるのだけれど、言葉だけでは不十分であって(と言うよりも時折言葉が持つ明確な意味合いがその場の均衡を崩してしまうことがあるが)、身振り手振り、体温の変動、表情のこわばりや緩み、声のトーンやくぐもりなどの身体が発するありとあらゆるものが共鳴し合いながらその「何か」は行ったり来たりを繰り返す。言いかえればそれは感じ合うことでもあって、だから言葉に偏った解釈はその感じ合いを妨げることになり、言葉の表面に固定された明確な意味解釈が、輪郭のぼやけたその「何か」のふんわり感を貶める。だから自分の感じている想いや考えを説明しようとすればするほどその「何か」は固くなっていき、伝えるべき、あるいは伝わってほしいと懇願する本質的な何かは損なわれる一方となる。

“説明しなければわからないことは説明してもわからない”

これは逆に言えば、説明すればわかることは本質的な何かではなく表面的なものでしかないということでもある。人生についての真理を知るためには言葉だけの説明で事足りるというのであれば、極端な話、とてつもなく分厚いマニュアル本を作成すればよい。生きていく上での困難にぶつかり、どうしようもなく気持ちが沈む時などはそのマニュアル本を開いて傾向と対策を練ればよい。でもそうはうまくいかないことを私たちは知っている。

言葉ではうまく説明できない「何か」が世界にはあって、その世界のほとんどがその「何か」で埋め尽くされている。私たちはその「何か」の存在を感じながら日々を生きている。私たちはその「何か」をどうにかこうにか説明しようとして、「神」や「宇宙」といった神秘的な言葉で語ったり、また邪悪に満ち満ちたものとして経験したりするが、その「何か」はあくまでも「何か」でしかない。たぶんというかおそらく、その「何か」がどういったものあるのかに想像を働かせて、完全にはわからないけれどなんとなくわかったような気持ちを抱くために、私たちは物語を欲するのだと思う。

言葉ではうまく説明できない「何か」が世界を埋め尽くしている。その「何か」がどういったものであるのかは、身体同士が共鳴する場で感じる以外の方法を私たちは持たない。そして、その場には言葉が必要不可欠なわけであり、誠に逆説的ではあるけれど、言葉でうまく説明できない「何か」は言葉を通じてしか伝えることも感じることもできない。

こうしてくどくどと説明しているところに、まだまだ僕には説明グセがあるのだなと突きつけられる。村上春樹は、言葉ではうまく説明できない「何か」を物語に乗せて、連なるメッセージの束として私たちの手元に届けてくれている。『1Q84』を読み終えて僕が直感したのはこのことに尽きるのであった。

村上春樹ファンに毛が生えたくらいの門外漢による、
くどくどとした説明なのでございました。

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/05/29
  • メディア: 単行本
1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/05/29
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まことの「経験」とは?〜『臨床の知とは何か』 [本・映画などなど]

なぜだかわからないが今日は雨だと決めつけていたものだから、朝目が覚めて窓の外を見ると曇りがちながらも晴れているのに気がついて気分がよくなる。たとえ雨が降ろうとも、木曜日は研究日なので大学に行かず自宅やその周辺で本を読んだりして過ごそうと決めていたが、晴れてくれればジーパンとTシャツ姿で散歩を挟みながら喫茶店のハシゴができるのでやっぱり好ましい。

遅めの朝食をとりながら新聞を読んで家を出る。まず向かったのはドコモショップ。つい2ヶ月ほど前にまったく電源が入らなくなって修理に出したばかりなのに、今度は折りたたんだときと閉じたときに急に画面が真っ暗になってシステムが再起動するようになった。だから、ポケットに入れていた携帯電話が鳴って「はいもしもし」と出るとすぐに電源が落ちる。すぐに再起動されるのでそこからコールバックすればなんとかなるのだが、如何せん面倒くさいし、相手方には電話に出てすぐに切らなければならないような緊迫した状況にいつも僕がいるような印象を与えることになるので、早々に改善しなければと足を運んだわけである。

何のことはない。前回と同様に代替え機を渡されて修理に出すことになった。「同機種で同じような故障は起こってないんですか」と訊ねてみても「調べてみますね」と連れない返事をされた挙げ句結局は返事なしであった。今回も前回と同様に突然不具合な事態に陥ったので、原因は特定できないままである。大学の同僚には「何かカラダから負のオーラが出てるんとちゃいますか」と僕そのものが携帯電話を狂わせているように言われたが、ここまで短期間に故障が続けばもしかするとそういうこともあるかもしれないと思われる。ドライアイスのような勢いで目に見えない何かが放出されているとすれば僕に近づかない方がよいだろう。ふん。

なんのこっちゃ。

修理には1週間から2週間ほどかかるらしいのでその間は代替え機で凌ぐことになる。でもこのところはメールもほとんど届かないし電話も仕事上の着信だけなので、電話を取っても電源が切れなければそれでいいのである。使い慣れない機種だからメールをするのも覚束ないので、これまで以上に無愛想な人間になることは間違いない。なので絵文字が少なかったり内容が簡潔すぎることもままにあるでしょうから、その旨、先にここで断っておきます。どうぞ皆様ご海容下され。

さて、ドコモショップを出た後はブラブラと阪急岡本辺りまで歩いて久しぶりに喫茶店【春秋】に入る。セミストロングという少し苦めなコーヒーと抹茶アイス付きのプレーンワッフルを頼み、一息ついた後は読みかけの本を開いてひたすら読み耽る。開いたのは『臨床の知とは何か』(中村雄二郎、岩波新書)。近代科学が置き去りにしてきた「臨床の知」について書かれてあるこの書は、これから僕がやろうとしていることの道筋を明るく照らしてくれるものであると直感している。この本を読んでいると、スポーツ哲学などと嘯いてみたところでいかに僕がものごとを知らないのかを眼前に突きつけられて「あいたたた」となることしきりなのだけれど、「知らないことがわかる」ことのワクワクさも同時に去来するからたまらない。内田先生にしても甲野先生にしても、つまるところ言わんとしているところは同じであって、どこがどのように同じであるかを言い表すことはできないが、とにかく「同じであること」は断言できる。こういう言い方をすれば乱暴な括り方をするなあという反論が予測されそうなものだが、僕自身は乱暴などとは思っていない。そもそも「同じ」だと感じることがなければ僕自身の思考の俎上に上るはずはなく、「あーそういうこともあるかもね」と半ば白け気味に興味を失うに留まる。向いている方向が同じでなければ僕の中に眠る知的好奇心に火が点くわけはなく、「同じ」であるからこそ「まさにそう言うことを僕は言いたかったんだよ!」という昂揚感が生まれるわけである。そして、「同じ」だからこそ、それぞれが主張されている思考の癖やニュアンスの「違い」について事細かに述べることができるのである。

大学院生のときに先生から『哲学の現在―生きること考えること』(岩波新書)を勧められて読み、なるほど身体についての見識が高まったとは感じてはいたが、あれから少し月日が経ってみると、改めて中村雄二郎氏が言わんとしてることに僕の理解が追いついてきたような気がしている。『感性の覚醒』『共通感覚論』が僕にとっては必読の書であるという確信が沸々と芽生えてきている。これから身体に、また身体性という問題に取っ組み合っていく者として読まなアカンと思う。

まだ読み終えてはいないが、この『臨床の知とは何か』を読む中で思考の地殻変動を感じたのは「経験」についての解釈が変わったことである。

僕はこれまでのラグビー選手としての経験を大切にしたいと考えていた。僕の身体にはそう簡単に言語化され得ないさまざまな身体知が眠っていると自負しており、それをどうにかして言葉として形にしていきたいという思いがある。しかしながら、経験に囚われた知というものには客観性が伴わないという、抑圧的なムードが学問の世界にはある(少なくとも僕にはそう感知される)。書物や実験データを確固たる根拠にしなければ客観性は保たれないという牙城はなかなか崩せないぞと、学問の世界に身を投じてからはずっと感じていたのである。

どうにかして「経験」というものを形にできないものか。ここは譲れない、譲ってはいけないという矜持みたいなものがあって、だから論文という形で研究成果を表すことに対して日に日に懐疑的にならざるを得なかった(少し論点はずれるが、論文という形で身体について述べることには限界があると甲野先生も著書の中でしきりに書かれている)。それでも学者の世界で生きていくためには論文は書かなければならないわけで、そこらへんで思考の壁にぶち当たっていたのである。

その壁をブレークスルーできそうだと思うに至ったのは「Ⅱ経験と技術=アート、2経験・実践と技術を顧みる」で、そこでは「経験」たるものが、近代科学の発展が置き去りにした「臨床の知」を再構築する際には重要になると説かれていた。世の中の現象や事物をみるとき、観察者は自らの「経験」をないものとして考える。主観的=「経験」のような軽々しい解釈が為されており、まるで鬼の首を取るように主観性を排除する傾向にある。この世に存在するはずもない「純粋な観察者」という立ち位置を無反省的に絶対視する人たちが占める学問的世界を憂慮し、生活世界における知というものを改めて考え直すことを中村氏は指摘していると思われ、そこに「経験」たるものの見直しが為されていたので僕としては少し楽になったというわけである。

しかしながら当然のように、ただ単に「経験」を有するだけで事足りるわけではない。「経験」が臨床の知を再構築するための条件として中村氏は次のように述べている。
___________
すると、われわれ一人ひとりの経験が真にその名に値するものになるのは、われわれがなにかの出来事に出会って、<能動的に>、<身体を備えた主体として>、<他者からの働きかけを受けとめながら>、振舞うことだということになるだろう。この三つの条件こそ、経験がわれわれ一人ひとりの生の全体性と結びついた真の経験になるための不可欠な要因である。 (中村雄二郎『臨床の知とは何か』岩波新書63頁) ___________

この3つの条件を端的に表現することが許されるならば、他者からの働きかけに応じながら自らすすんで現実に身を投じるということであろう。そうすることで、客観性に乏しく傲慢さを覗かせる主観性を孕んだ経験が、「生の全体性と結びついた真の経験」たり得ると、中村氏は主張しているのである。スポーツ選手が引退後に「オレは現役時代こんなに凄かったんだよね」というときの武勇伝的言説は、真の意味で「経験」ではないということになる。

どうにも決着をつけることができずにモヤモヤとしていたものが幾許かすっきりとした。哲学をするということは、こうした思考プロセスそのものであり、おそらくは今回のように少しずつ少しずつ歩んでいく他はないのであろう。思い返せば大学教員になる昨年までは、おそらくそんな風に書物を読みながら思考に耽っていたのだろうが、いざ大学教員になってそれらしく振る舞わなければならないという気持ちを強く持ちすぎたために、こんな初歩的なことすら意識の外に置かれてしまったのだと思う。オリジナリティとは何たるかの理解もなくオリジナリティを求められたり、客観性という言葉をまるで聖なる剣のように振りかざされ過ぎて迷いが生じていたのだろう。

いずれにしてもそんな停滞時期を超えて、少し思考のエンジンが掛かりだしてきたようなので、このままの調子でしばらくはすすんでいくことにする。

ではおやすみなさい。




臨床の知とは何か (岩波新書)

臨床の知とは何か (岩波新書)

  • 作者: 中村 雄二郎
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1992/01
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