So-net無料ブログ作成
検索選択
あんなことやこんなこと ブログトップ
前の10件 | -

「面倒くささ」の意味。 [あんなことやこんなこと]

あけましておめでとうございます。

という、いささか遅きに失する新年の挨拶をしておいて久しぶりに書き始めてみたい。1ヶ月以上も放置したことはこれまでになく、「どうしたんだろう、なぜ書くことに戸惑っているのだろうか」と頭を抱え込んでいるうちに、あれよあれよと時間が経過してしまった。考えれば考えるほどに書けなくなって今日まで至ってしまったというわけである。

この間の拙ブログへの足跡を調べてみると、更新されていないにも関わらず幾度となく訪れてくれた人たちがたくさんいた。申し訳ない気持ちとありがとうの気持ちでいっぱいである。あたらしい年も迎えたことだし、心機一転、書いていく所存なのでどうかよろしくお頼申します。

それにしても前回のエントリーが11月も終わりの神戸マラソンに関する内容というのには驚くしかない。なぜ気持ちが向かなかったのだろうかと、振り返ってみたところでその原因が明らかになるとは思えない。とにかく書けなかった、書きたくなかった。誤解を恐れずに言えば「面倒くさかった」。

何が面倒くさかったのかというと、あらゆる人たちの目に触れるネット上で書くこと、にである。ネットという広大な世界の、ちょっとした木陰に看板を立てかけて書いているに過ぎないとは言え、名前を名乗って文章を書いている以上はやはり一定の気配りを為さねばならない。想定される読者を頭の片隅におきながらオブラートに包みこむような表現を使ったり、人物が特定されないように固有名詞を避けたりすることは、ネット上で書くには必要不可欠だ。迎合ではなくあくまでも配慮として、である。

こういうことは当たり前すぎて、あえて書くまでもないことなのだろうが、あまりに当たり前に過ぎることは慌ただしい生活の中では意識に上ることが少ないため、「あえて」書いておかなくてはならない。少なくともボクはそうしておかないと、つい失念してしまうのである。そして失敗が重なって落ち込むことになる。しゅん。

つまり、である。ここんところのボクはこうした配慮をするのが面倒くさかったのである。書きたいことや言いたいことは山ほどあった。でも書けない。書きたくなかった。なぜなら面倒くさいから。

ボクに対して好意的な読者ばかりならよいのだけれど、ネット上にはそんなぬるま湯な言論の場はどこを探してもみつからない。揚げ足をとろうと待ち構えている人たちがうようよしているのがネットという世界である。しかもこうして書かれた文章は意図して消去しない限り半永久的に残存する。サイトを作ったのが2002年、それを引き継ぐ形でブログを始めたのが2007年、それ以降であれば何年何月にボクが書いたことは書かれたときのそのままの状態で一字一句変わらずに残っている。

ただ思うのは、残っているそれはあくまでも字面だけなんだってこと。ボクは自らの書いた過去の文章を読んでいるときに、書かれた内容だけを懐かしんでいるのではない。言葉の連なりをなぞりながらふっと湧いてくる想像力が、想いもよらずに四方八方に派生し、その時代に感じていたことや考えていたこと、頻繁に会っていた人のことなどが数珠つなぎに自然と浮かんでくる。あるひとつの事象を書き綴った言葉の連なりがきっかけとなって、そこに一言も書かれていないあんなことやこんなことが次々と浮かんでくる。それらをひっくるめてボクは昔を懐かしんでいるのであり、それがつまり言葉の連なりとしての文章なのだ。

そう、言われなくてもわかっている。もしものときを考えてボクは言い訳をしている。ここまでつらつらと書き綴ってきた文章は、あらゆる方面への配慮が面倒くさくて書けなかった、基、書かなかった、その理由をもっともらしく述べているに過ぎない。言葉で言い表すことのできるものは、たくさんの事象のうちのひとつであり、書かれたものだけがすべてではない。その日のうちに考えたこと、行動したこと、感じたことが無数にあるうちのひとつの事象を取り上げたに過ぎず、だからそれがすべてではないのだ、というふうに、揚げ足を取ろうと目論む人たちへのある種の防御線を無意識的に張っている。

もう一歩踏み込んで端的に言おう。つまりは怖がっていたのだ。書きたい衝動に駆られながらも、その書きたい内容がそれなりの細やかな配慮を必要とする事柄だったのだと思う。「思う」としたのは、ある本の、あるフレーズで一気に腑に落ちたからである。そのフレーズを目にするまではなぜ自分がブログで書くことに前向きになれなかったのかを説明することはできなかったのだから。すでに感じていたものを言葉が縁取る、つまりはこれが「腑分け」なんだろう。

そのフレーズとは以下の通り。


ネット時代の言論弾圧は、「面倒くささ」として書き手の前に立ちはだかることになっている。(小田嶋隆『地雷を踏む勇気』技術評論社)


地雷を踏みにいく勇気をもたねば。

2012
年もどうぞよろしくお願いいたす。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

いつもと同じ、ってこと。 [あんなことやこんなこと]

また1週間が始まった。いつものように迎える月曜日を、いつものように過ごすことで心と身体にスイッチが入るような気がする。朝から今週分の講義内容の見通しを立てて、ひとつひとつを準備していき、昼過ぎにはラグビーサークルの学生たちとともに1時間ほど練習。それが終わるとまた研究室に戻ってきて講義の準備の続き。そして帰る前にはグラウンドに出てラグビーボールを蹴って、インターバル走をする。昨夜は遅くまでラグビーワールドカップの準決勝ニュージーランドvsオーストラリア戦を見ていたこともあり、研究室に着いたのがいつもより1時間だけ遅かった以外は、まるでいつもと同じように過ごしたのだった。

そういえば高校生までの生活を振り返ってみると、ほぼ同じような1週間を過ごしていたことが思い出される。ボクが通っていた学校は朝練がなかったので1時間目に間に合うように通学すればよく、授業が終わってからはラグビーの練習で汗を流し、自転車にまたがってチリンチリンと帰路につく。当時まだ絶対軒数が少なかったコンビニエンスストアで買い食いするときもあった(コンビニと言えばローソンだった時代だ)。それからもちろん学校の勉強の復習などするはずもなく、テレビをだらだらと見て眠たくなったら眠るという生活をしていたように思う。

社会人になってしばらくのあいだもそのような生活だった。当時はまだプロ契約がなかったので全員が仕事をしながらラグビーに取り組んでいた。練習は18時半から。神戸製鋼ラグビー部は伝統的に練習時間が短かったので、20時過ぎには終了。個人練習をしたり身体のケアをする選手はいたけれど全体での練習は2時間もしない。そこから寮に帰ってご飯を食べて暫しの時間を部屋でくつろぐ。映画を見たり好きな本を読んだり、チームメイト同士で集まってしゃべったり。全体練習が週に3日だったし、試合の無い週末は基本的に休みだったので、それ以外は比較的ゆったり過ごすことができた。とはいえ週末の午前中はチームメイト数人で集まって個人練習をしたり、一人でウエイトトレーニングやキックの練習をしたりと、なにもせずに週末を過ごしたりすることはほとんどなかったけれど、精神的な余裕があってラグビーに対してとても素直に取り組むことができていた。ラグビーをずっと好きでいられるような、そんなふくよかな時間だったと記憶している(試合にも勝ってたしね)。

それがいつの間にか練習時間も増え、一回の練習時間のみならず週の練習日も増えていって、精神的にだんだん窮屈になっていった。試合で結果が出なくなるとどうしても練習時間が増える。これはどのスポーツにもありがちな現象だろうが、練習時間を増やせば増やすほどチームとしてもまとまり選手個々の競技能力も向上するというのは、あまりに安直な考え方ではないだろうかとボクは思う。練習量が増えれば確かに少しは強化されるかもしれないが、目まぐるしく情況が移り変わるラグビーでは常に臨機応変な対応が求められるわけであり、だからこそ個々がその情況に応じて判断する能力を身につけなければならない。やらされる、のではなく、自らで考えて最適なプレーを選択し、それを共有する、ということが必要だ。それにはすべてを指導者側が与えて、それをただ遂行させるという練習のやり方ではどうしても不十分だろう。

というのは、こうした経験を経た上でまだまだ駆け出しの指導者が考えている自論である。あくまでも駆け出しの指導者なので、それを裏付ける経験に事欠くのは百も承知しているが、まあちょっと言ってみたかったのである。とは言ってもボクの中ではかなりの確信を持ってはいるのだが。

では最後にラクロス部の報告を。

昨日、わがラクロス部の今シーズン最終戦が京都大学農学部のグラウンドで行われ、京都女子大に6‐9で敗れた。1部リーグ昇格を目標に掲げたものの、終わってみれば3勝3敗1分けの4位。目標に照らし合わせれば不本意な成績だったことは確かである。ただどうにも落ち込んでしまうのは、試合の流れとか勝負どころとか、ボク自身がラグビーで身につけたことを学生たちにどこまで伝えればよいのか、そしてそれが果たして伝わっているのか、そして伝えることはそもそも必要なのかがよくわからくなってしまったからである。これがラクロスではなくラグビーだと学生たちにもっと具体的なアドバイスができたはずで、学生たち自身もボクの言葉を受け入れやすかったのではないだろうか。ラクロスの競技経験がないことをこれまでは前向きに捉えてきたが、ここにきてその限界が見えてきたような気がしている。ここらあたりをもう少し踏み込んで考えて、来シーズンに備えたいと思う。いっちょラクロスを始めてみるかなどと無謀な試みも視野に入れつつ、思考に耽ってみようと思う。駆け出しの指導者にとってはまだまだ学ぶべきことがたくさんあるな、うん。




nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

連載終了にあたっての挨拶。 [あんなことやこんなこと]

秋を通り越して初冬のような一日もすっかり暗くなった。山を越えて神戸市の北に位置するここ鈴蘭台は、すっかり冬の匂いが漂っている。

ひとつ前に身体観測第127回目分を更新した。読んだ方はわかると思うが、今回を持って連載を終了することになった。思い返せば5年と5カ月。よくもこんなにも長く書き続けることができたよなあ、すごいよな、オレってと、ちょっと得意げに感慨にも耽ってみたが、しかし、長らく書き続けられたことの本当の理由はそういうことではない。何よりも言えるのは、ボクのことをオモシロがってくれる人が周りにたくさんいたから、ここまで書き続けることができたのだ。

「こんなこと書いたらあの人の琴線にふれるかもな」と思ったら、なんだかワクワクしてきてキーボードを叩く指がスムースに動いた。反対に、「こんなこと書いたらあっち方面の人たちはしかめっ面をするに違いない」と思ったときもスラスラと書くことができた。ただこれは「おもしろがってくれる人たちがいる」ってことの裏返しであって、結局のところ、オモシロがってくれる人たちがいたから特定の方面を苛立たせる内容をも勇気を持って書くことができたということなんだろう。

とにもかくにもこうして連載を続けてこられたのは支えてくれる周囲の方々がいたからであり、さらには読者の方々がいたからであって、ここでこうして改めて感謝の意を表したいと思う。本当にありがとうございました。正直に言うとちょっと寂しくもあります。でも、どこかホッとして肩の荷が下りたように感じているところもある。今年に入ったあたりから書くネタに困って締切直前で「んがー」となることも多かったもので。おそらくはそのあたりも言葉の隙間から洩れでていたのでしょうね。失礼しました。

連載中は何かネタになるものはないかと、ずっとアンテナを張り続けていた。だからこそ得るものがあって、ネタになる前の火種みたいなものを見つけられていたのだが、連載が終わればその必要はなくなる。見つけなくてもよいのだから、見つけようとしない。そうすると、今までそれをもとにしていろいろと思考に耽ってきたのだから、肝心な研究において底抜けするんと違うやろかという不安が無きにしも非ずである。だからそうならないように、もっとこのブログを更新していこうと思う。期日を切ったりして制限をもうけなければボクってヤツは結局のところ何もしないので、そこんところはちょっと気をつけようと思っている。

てなわけでまたここで書いていきますのでどうぞよろしく。




 

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

生産的な営みと7月。 [あんなことやこんなこと]

それにしても時間はただただ過ぎ去ってゆく。結婚してこれまでの生活とは違うリズムで過ごすようになってから早3ヶ月が経ったのだから驚くのも無理はないだろう。車に乗り込んですぐに今から帰りますメールをするのもすっかり習慣になったし、今日の晩御飯はどこで食べようと頭を悩ますこともなくなった。結婚するまでのここ数年を振り返ればものすごく単調で、しかも自由気ままな生活をしていたものだと改めて感じるけれど、懐かしさはほとんどなく、どこか遠い過去のように思えるから不思議だ。すっかり今の生活に馴染んでしまったボクがここにいる。

7月は毎年あっという間に過ぎ去ってゆく。講義に加えて高校訪問にオープンキャンパス、それに水泳実習があるから、休日がほとんどなく、ただ日常の業務に取り組んでいるだけで知らぬ間に過去のものとなる。また、梅雨も明けて暑さが厳しくなる時期でもあり(ビールが旨い季節です)、気持ち的にもぐうたらしてしまってあれよあれよと逃げていく時間をみすみす取り逃がすこともしばしば。つまりは仕事以外の時間はすっかり放心状態になるのです。せめて本だけは読みたいのでその時間は何が何でも確保するにしても、それ以外はなんにもしたくなくなる。

生産的な営みばかりに時間を費やしてると、一般的には感性とかいう言葉で表現されがちな大切ななにかがどんどんやせ細っていくのはこれまでの経験からわかりきっている。わかりきってはいるものの、こればっかりは心の片隅に引っかけておいてときどき思い出さなければ泥沼にはまってしまうんだよなあ。もがけばもがくほどに、つまりは頭で効率的に考えれば考えるほどに空回りして、どよーんとなる。なにが生産的でなにが生産的でないかの線引きは難しいところではあるんだが。そもそも線引きしようとすること自体が間違っている気がしないでもないけれど。

そういえば神戸マラソンには落選しました。受かりそうな気がしてたんだけどダメでした。こんなに軽いノリでエントリーしてるボクが当選したら、どうしても走りたいと願ってエントリーした人たちに申し訳がないですよね。だからこれでよかったんでしょう(と自分を慰めている)。また機会があれば挑戦してみようと思っています。でもせっかく走り始めたのだから、神戸マラソンに出られなくても走り続けようと思ってるし、近々、京都マラソンがあるみたいだから、そっちにエントリーしてみようかなと企んでます。それにしても当選もしていないのにちょいと騒ぎ過ぎてしまいましたよね。どうもお騒がせいたしました。

せっかく身体を動かしたがっていることもあり、これからはあれこれと運動しつつ思考を重ねていこうと思っています。途切れがちなブログもまた書いていきたいなと。ここんところはそう決意しながらもなかなか書けないでいるので、気長にお付き合いくだされば有り難いです。ブログを書けなくなっていることこそが生産的な営みだけに意識が向いている証拠なんだろうなあ。わかっちゃいるけど、難しい。ではまた。


 
nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

教えることと学ぶこと。 [あんなことやこんなこと]

実習校訪問でてんやわんやの1週間が終わろうとしている。なにぶん初めての経験だったものだから、その場その場でどう振る舞ってよいのかにいちいち意識がからんできて、大変だった。学校によっては「平尾先生ってラグビーされてたんですよね?」と切り込まれ、どこまでをどのように開いたらよいのかに慌てふためいたりもした。誠二さんと混同されていないかの確認は、もうお手のものなのだけれども。

初対面の方とお話しすることがこんなにも苦手だったなんて、改めて感じた1週間でした。しかしながら教育現場で奮闘されている中学高校の先生方の、生のお話を聴かせていただく機会というのは貴重であり、また学校というところが醸し出すあの独特の雰囲気を感じることで思いもよらない昔の記憶がよみがえったりもして、新しい発見もあった。教科書がやたらとカラフルになっていて、文字よりも絵の割合が多いんちゃうかと思ったこともそう。ボクらの時はもっと文字だらけで、ほとんど白黒に近かったのではないかと記憶しているのだけど、どうなんだろう。聖徳太子や豊臣秀吉の顔に落書きしたのははっきり覚えているんだけど。

概ね学生たちは一所懸命に実習に取り組んでる様子だった。いくつかは研究授業も見させていただき、いつもと違う表情で生徒の前に立つ姿からは成長の跡がうかがえて思わず表情が緩んでしまうこともあった。ハンドタオルで絶えず汗を拭きながら授業をする学生もいて、汗かきのボクとしては共感せざるをえず、と同時に「焦ってんねやろうなあ」と心配したりもした。

学校というのはもうそれだけで独特の雰囲気があって、先ほども書いたけれどいつかの自分が味わってきた空気や匂いが思い出されて甘酸っぱい心境になる。母校でもないから全く知らないはずなのに、「先生」に見つめられるとどこか後ろめたさを感じてしまうのは、紛れもなくボクが学校から学んだことと関係しているのだと思う。とにかく「先生はえらい」のである、という教えはどれだけボクをふくよかにしてくれたのかと、改めてそう感じたのである。

ボクの立場から言うべきことではないのかもしれないけれど、やっぱり「先生はえらい」のです。先生への敬意があって初めて学べることがある。だから先生への敬意がなければ「それ」は学べない。そして先生への敬意があって初めて学べる「それ」は、生きていく上ではとてもとても大切な内容であり、はっきりと言葉で言い表せないことでもあり、目に見えないことでもある。

この点で「教える―学ぶ」の関係性は、まず「学ぶ」があって初めて築かれると考えられる。だがしかし、「学ぶ」姿勢を作るまで教師たるものは手をこまねいて見ていてはダメで、まるで「学ぶ」姿勢をもたない子どもたちを前にして「教えよう」とおせっかいをやかなくては何も始まらない。だとすればこの関係性は「教える」から築かれるとも考えられ、さっそく先ほどの言い分が否定されるわけなのだが、ここらあたりを腰を据えて考えてみると、えてして教育というものはどっちが先とはいうものではないのであろうという結論に落ち着く。何かを学んだり何かを教えたり、つまり「教えるー学ぶ」の関係性というのは何かのはずみで成立するものであって、だからそのはずみがいかにして生まれるのかについて考え続けなくてはならないのだろう。

だからこそ「先生はえらいものなのだ」という信憑は崩してはならない。学ぶ側も教える側も、この信憑を守るべく適切に振る舞うことが求められるのだと思う。それは具体的には生徒や学生は先生を信頼し、先生はその信頼に足るべく努力を継続するということ。すなわち先生の立場としてのボクができること、それはボク自身が学び続けることだ。信頼に足る人物になる、という言い回しはどこか窮屈で実感に乏しい印象が拭えないのだけど、「学び続ける」ことなら前向きに楽しんでできそうな気がするのはボクだけだろうか。

教える立場にいる人間は絶えず学び続けなければならない。

これまでに幾度も反芻してきた言葉も、こうして書いてみるとまた違った味わいで心に沁みるから不思議である。当たり前に当たり前なことほどこうして言葉にすることが必要だ。ということもまた当たり前のことだから、どうにもまたややこしい。本当に大切なことはいつもややこしい。これだけは至ってシンプルなんだけど。





nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ブログとツイッターの違い。 [あんなことやこんなこと]

それにしても本当に書けなくなった。いや、書かなくなったというべきか。ブログの更新が滞っている理由の一つにツイッターがあるのは間違いない。140字以内という制限はあるものの、連続してつぶやけばそれなりの内容を書き綴ることができるわけで、ブログ並みの長文は無理にしてもある程度は思考中のあれこれがまとまってゆく。たぶん、それで満足を得ているのだろうと思われる。

「物事を考え始めるきっかけ」は突然やってくる。大学に向かう車中やベランダに出てキャンプ用のイスで微睡んでいるとき、はたまた講義後に研究室でコーヒーを啜っている最中などにふと浮かんだりする。そして知らず知らずのうちに思考に耽っていて、ハッと我に返って慌ててメモするというのがこれまでだった。それからしばらく頭の片隅に引っかけておくからあるとき無性にブログで書きたくもなるし、書きながらにまた少しだけ中身が煮詰まり考えが深まる。そうしていつも何かを考えている状態にボクはいたのだと思う。

ただ昨年にツイッターを始めてからというもの、こうした習慣が変わった。つまりメモする代わりにつぶやくようになった。物事を考え始めてすぐの状態で「少しだけ」考えられるようになったのである。この「少しだけ」をよしとするのかどうかに見解の違いはあるだろうが、少なくともこの「少しだけ」がボクをブログから遠ざけたように思う。

うん、たぶんそうだな。

そもそも今までずーっとラグビーをしてきたものだから、考えることにあまり慣れていない。いや、考えることは好きで、どうでもいいような些細なことを考え続ける癖は昔からあったが、論理的に思考することはどちらかと言えば苦手である。論理的に組み立てていっても、結論に至る少し前で「やーめたっ、このくらいにしといたろ」と考えるのを辞めてしまいがちである。たぶんこの癖はスポーツ選手に全般的に当てはまるような気がしていて、その理由は、身体実践の場での論理的思考はときにパフォーマンスを阻害する方向に働きがちだからである。

たとえば、パスの仕方やステップの際の足の運びについて、ガチガチの論理で理解していたとすれば、言葉での説明にどうしても意識が張り付いてぎこちない動きにしかならない。「相手を見てスナップを利かせながら薬指と小指で押し出すように、さらには相手の存在を気配で感じながらここぞというタイミングでパスする」という言葉での説明は、かえって動きの邪魔をする。言葉での理解、つまり論理的な思考は頭を落ち着かせるも、身体のパフォーマンスにそのまま寄与するとは限らない。

うまく動くためには頭での理解を一旦カッコに入れるか、意図的に消滅させなければならず、だから卓越したパフォーマンスを幼少のころから発揮してきたスポーツ選手は、この習慣を早い段階で身につけているものと思われる。指導者からの言葉を半ば聞き流すことでパフォーマンスが向上するわけだからそれは必然である。だから論理的に思考を組み立てていっても最後の最後で腰砕けとなるのは、スポーツ選手の特性ではないかと考えているのである。

これは、周りを見ていてもそう感じるし、ボク自身を外から眺めてみてもそう思う。まあ、思い込みに過ぎないかもしれないけれど。

最後の最後で確固たる結論を出すことをほとんど反射的に嫌がる。これはアスリートに特有の思考癖ではないかとボクは考えているのだがどうだろう(共感するとか異論があるという人は是非ともコメントを頂きたい)。

だからといって開き直るつもりもなく、ましてや卑下するわけでもない。むしろ研究者としては克服すべきものとして自覚しており、なんとか腰砕けにならないように努力しているつもりなのだが、ふと気を許したときに「このくらいでまあええか」と幕を下ろしてしまいそうになる。論理的に思考するって事は本当に難しいものである。

で、この最後の最後で「まあええか」と投げてしまう思考癖。これが見事にツイッターというメディアに合致した。最後までじっくりと考え続けなくともある程度の思考があればそれなりのことが書けてしまう。それをいいことについ100%の満足感を覚えた自分がいて、だからブログでこうしてじっくりと思考しながら書くことをしなくなったのだ(たぶん)。タイムライン上の大半の方々はツイッターというメディアの特性を理解した上で、つまり140字以内(×数回分)で表現できる事象と、そうではなくじっくりと思考しなければならない事象を弁えておられるから問題ないにしても、ボクにとっては小さくない問題だったのだろう。

論理的に思考することの訓練を受けたこともなく(いや、大学に通っていたのだからボクにその気がまったくなかっただけなのだが)、絶えずグラウンド上でのパフォーマンスを最優先させてきたことの影響がここにある。だからこそラグビーでそれなりのところまでやれたのだし、その部分を否定するわけではないのだが、ただこれまでそうしてきたからこれから先も同じように振る舞うことだけはしたくない。というか、それではすべてのことが立ち行かないわけで、これまでの経験を言語化していくにあたってはきちんと論理的に思考することを癖づけなければならないと思う。

だからブログは書かなくてはならない。というように結論づければお堅い義務感まみれになってしまいそうだが、決してそんなことはなく、やはり書くってことは楽しくてとてもスリリングである。夢中になって書き上げた文章をあとから読み返してみると、そこには思ってもみなかった自分自身を発見することも多い。へー、オレってこんなことを考えていたのかと、日常の中で感じていたモヤモヤにくっきりと輪郭が与えられてスッキリするのだ。

だからと言ってツイッターをやめるわけではない。やめるわけではないけれど、その特性を理解した上でお付き合いしていかないといけないなあと改めて感じている。ツイッター的な思考とブログ的な思考は、意識の射程と掘り下げる深度が違い、元スポーツ選手としてのボク自身の思考癖はツイッターというメディアにものの見事に合致する傾向にある。

ツイッター上で済ませてしまえる内容とブログでしか深められない内容。この違いに想像を及ぼしつつ、また改めて書くことと思考することに向き合ってみたいと思う。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

集中力と持続力。 [あんなことやこんなこと]

専門演習でのディスカッションテーマを見つけようと本棚を見渡しているときにふと目に留まった『走ることについて語るときに僕の語ること』(村上春樹、文春文庫)を手にとる。もう幾度も読み返しているこの本をまたパラパラ開いてみたら、やっぱりみつけた。いや、ディスカッションテーマではなく心に残るフレーズなのだが、こうして何気なしにふと手にとった本が心に響くことは今までに数え切れないほどあって、そのたびに心が躍るのである。

というわけでさっそく引用しておく。

<ここから引用>
 才能の次に、小説家に何が重要な資質かと問われれば、迷うことなく集中力をあげる。自分の持っている限られた量の才能を、必要な一点に集約して注ぎ込める能力。これがなければ、大事なことは何も達成できない。そしてこの力を有効に用いれば、才能の不足や偏在をある程度補うことができる。(116頁)

 集中力の次に必要なものは持続力だ。一日に三時間か四時間、意識を集中して執筆できたとしても、一週間続けたら疲れ果ててしまいましたというのでは、長い作品は書けない。日々の集中を、半年も一年も二年も継続して維持できる力が、小説家には――少なくとも長編小説を書くことを志す作家には――求められる。(116-117頁)
<引用ここまで>

村上春樹は作家に必要な資質として、才能はもちろんだがその次に必要なものとして集中力と持続力を挙げている。でもこれはなにも作家だけに求められる資質ではないだろうと思う。長きにわたって何かを作り上げる、すなわち時間の射程が長い仕事をする際に求められる心掛けであろう。瞬発的に力を発揮するのはそこそこの能力と突発的な志しがあれば為し得るだろうが、継続的に発揮するのはとても難しい。じわりじわりと粘り強く取り組む。まさにボクが苦手とするところであり、「もっとじっくりがんばらんかい!」という天の声にガツンと打ちのめされた思いがしている。

集中力。確かにこれがなければ何事もできない。漫画『ドラゴンボール』で悟空が元気球を集めるときのように、気を一点に集中させれば大概のことはできる。もしかするとそのとき自分が思い描いているゴールとは違うゴールに到達するかもしれないが、それもまた一つのゴールであり達成だと解釈すればよいのであって、ほとんどのことは為せば成る(と信じたい)。

しかしながら単発的に集中力を発揮するだけでは、為し得ることに一貫性がなくなる。何かを為し得た後に長期にわたる完全休養が必要となるようながんばり方ではダメで、ある程度の集中を保った状態を継続できることが大切であって、それが持続力ということであろう。なんだかとても身につまされる。

大それたことをしようともしたいとも思っていないが、ただ、今の自分が考えていることを一つずつ実現していきたいと考えていて、それは追い込み型ではないスポーツ教育論であったり、武道的な身体運用の考え方をスポーツの中に取り入れることだったりするわけで、それには継続的な労力とまとまった時間がかかる。だから、この集中力と持続力がどうしても必要になるわけだが、ついついしびれを切らしてしまいそうになってアタフタしていまい、慌てふためく自分が自分で嫌になり、ああ、と落ち込む。

集中力と持続力。もっと意識していかねば。

結局のところディスカッションテーマはまだ浮かばずか…。とは言え、ホントのところを言えば大まかには決まってるんだけどね。



nice!(1)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

つい乗せられちまったかもな、まだ決まってないが。 [あんなことやこんなこと]

連休明けの初日はどこかピリッとしなかったものの、それを吹っ切るべくやや背筋を伸ばして仕事のあれこれをひとつひとつ機械的に片付けていったら、予想以上に集中力が高まってあっという間にこんな時間。「とにかくやる」ってことがどれだけ大切なのかを、もう何度目か分からないほどに改めて感じた月曜日なのでした。

さてと、振り返ればあれは数日前。ツイッター上で、最近つぶやき始めたばかりの後輩とちょっとしたやりとりがあり、ひょんなことから神戸マラソンにエントリーすることにした。彼からの誘いに「おまえが出るならオレも出るよ、でもエントリーは締め切ったんとちゃうかあ、残念や」と軽々しく返事をしちゃったもので後に引けなくなったのです(エントリーの締め切りは5月20日までだったのでした)。

その後輩とはこの3月に現役を退いたばかりの後藤翔太で、ついこの前まで現役選手だったばかりか、何より長距離走が抜群に速い男。おそらく彼ならかなりのタイムで走破することは間違いなし。それに引き換え、4年も前に引退して、そこからしばらくはラグビー指導を兼ねて週2回のタッチフットで走り回ってはいたものの、この2年ほどはほとんど動いておらず、しかも現役のころから長距離走は大の苦手ときた。ナゼニボクハマラソンヲハシルコトニシタノカ、ヨクワカリマセン。

(おいおい、この挑戦は無謀じゃあるまいか?)

(神戸市役所を出発して明石海峡大橋の袂まで行き、そこから折り返してポートアイランドまで戻ってくるというのだから、想像しただけで果てしない道のりやな…)

(この距離を7時間以内に完走せにゃあならんのか)

(いやいや、元ラグビー日本代表選手だけに7時間以内というわけにはいかんわな、それなりに格好つけないと洒落にならんぞ←ええかっこしい)

(しかも神戸とくれば友人や知人に加えて、こっちは知らないけれど向こうはボクのことを知っている人もぼつぼついるわけで、なおさら格好つけないかん)

(………抽選、外れへんかな……)

という感じで、いざエントリーを済ませてからは妄想が膨らんでやや弱気になっておるのが正直なところでございます。しかしながら、今回のマラソン参加という決断は「あまり深く考えることなく下したもの」なので、これもなにかのご縁とこの上ないタイミングだったのだろうと割り切って、この半年間、準備だけは入念にすることにします。早速ですけれど手始めに今朝も小一時間ほど走ってまいりました。六甲の山手は坂が急なものでトレーニングをするには最適ですし、がんばって登った先にはきれいな景色が待っているから、それを楽しみにまずはぼちぼちやっていきます。

てなことを、まだ走れると決まったわけではないうちから考えているのでした。




nice!(2)  コメント(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ほんまにまあええんか、な。 [あんなことやこんなこと]

連休明けの今日は心もカラダもどこかピリッとしないままに一日を終えた。講義とゼミと会議があったのだけど、話をしたり聞いたりしていても身体のどこかにある風穴からシューシューと何かが漏れ出ているかのような感覚がある。下丹田に意識を集めてみてもどうにもうまくゆかない。ややイライラ。でもこのイライラも、身体のどこかにある風穴からシューシュー抜け出ているようで、なんともフニャフニャである。

まあこんなときもあるかと、ちょうど昼ご飯を食べ終えたあたりで自分に鞭を打つのをやめた。あるがままに、あるように。とても難しい境地には違いないけれど、こうしたひとつひとつの心がけや、その心がけからふと生じる気づきを拾い集めればいずれは辿りつけるだろうと高を括っており、この確信はどうにも揺るがない。だからあれこれ考えながらある程度の時間が経てばつまりのところは心が軽くなるのだが、そういう状態の時は心身にはっきりとした手応えがないだけに少々の不安を感じてしまう。あるがままに、あるように。やはり難しい。

こんな時はついついツイッターに興じる時間が増えるのだが、不思議なことにこういった身体感覚って同調するものらしく、タイムライン上には同じように連休明けでフニャフニャさを引きずっているであろうと思われるつぶやきが散見される。連休明けだから同調するのは当然かもしれないけれど、こうも見事にフニャフニャさが同調するのはなんだかとても不思議で、どうにもうれしくなってくる。あの人もあいつもそうなんだと思うとホッとするのは人の性で、それがいいことなのかあまり好ましくないことなのかはさておき、少しの安堵が得られる。だから、「まあええか」。これもまた手応えを追っかける心性に深いところでつながっているような気がするから、だから「まあええか」と敢えて思うようにしているきらいはあるのだが。

いずれにしても今日のところはお腹がすいたので帰ることにする。また明日から2日も休みかと思うと月曜日はまたフニャフニャかもしれず、そのことへの不安が首をもたげてきてなんだか気分が沈みがちになるので、やっぱりここでも「まあええか」と思うようにしてさっさとパソコンを閉じることにする。さあて。




nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ついこの前だったはずのあの頃と、今。 [あんなことやこんなこと]

あっという間に4月も終わり。今週を乗り切ればGWに突入。時間が経つのは早いものである。

という書き始めが常套化しつつあることは少し気にかけているが、たまにしか更新していないのだからこれが正直な気持ちで現実であるから致し方ない(ということにしといてください)。時間というものはホントにあっという間に過ぎ去ってゆく。いや、正確には「あっという間に過ぎ去ってしまう」という実感がそう思わせているだけで、時間はいつも通りゆっくりと流れているにすぎない。日常的なあれこれに急かされて、または急かされたふりをしなければ立ちゆかない状況がこう思わせるのに一役買っているんでしょう。

と、今回はなんともややこしい言い訳ですみません。

さてと、ボク自身のことも含めてまわりではめでたいことが続いていて浮かれ気分の日々である。内田先生の伊丹十三賞受賞を筆頭に、私的な事を挙げればきりがないくらいにめでたいこと続きで、なかなか刺激的な日々の連続に目が回りそう。だがしかしそれは当然のように、楽しくも明るい日々である。

ボクにとっては人生のパートナーと一緒に新しく生活を始めたことが何より大きな変化である。つい1カ月前を振り返ると、なんとも目まぐるしい変化のただ中を生きていたのだなと実感せざるを得ないけれど、つい1か月前のことがはるか過去の出来事のように思えるのはとても不思議だ。「そんな~時代も~あーったねと♪」と、今なら中島みゆきのあの歌を跳びきりの実感を込めて歌えそうな心境である。あの家で独りであんな生活をしていたんだなあと、あの頃がまるで他人事のように感じられる。ここでもまた時間の流れが感じられてしみじみとなる。

あらためて言うまでもなく、当たり前に当たり前なことだけれど、結婚生活は「ひとりがふたりになる」とかそんな単純な足し算ではなく、こいつと2人で生きていくという意志のもとに営まれる生活であって、まだ歩み始めて間もない今でもそこには十分な手ごたえを感じている。その正体はなんだかよくわからないけれど身体の内奥には漲るものがあって、これまでとは違った身体感覚をこの身に感じている。

そのよくわからないけれどなんだか温かなものを抱えながらこれから生きていくのかと思うと、なんだかものすごく前向きになれる。過去のどこかに置き忘れてきた自信を取り戻しつつある気配を感じたり、なんの根拠もなく意欲が湧いてきたり。「腹が据わった」という表現は少し定型的で、それでいて格好つけ過ぎかもしれないけれど、そんな感じがしている。うーん、なんだかよくわかりませんよね、この書き方では。でもこんな心境なのです。

まだまだ至らないところが多々あって、パートナーにはもちろん、周りの皆さんにも心配や迷惑をかけ通しなのは百も承知しているけれど、なんとかやっていきたいと思っとります。どうぞよろしゅうに(ってまた挨拶になってしまった)。



nice!(2)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感
前の10件 | - あんなことやこんなこと ブログトップ