「スポーツが果たす役割」身体観測第117回目。 [『身体観測』]
東日本大震災から3週間が経過した。画面を通して伝えられる復興の様子に少しずつ心も落ち着いてくる。避難所で過ごす方々の笑顔を見た時はなおさらだ。そのたくましさに生きる勇気が湧く。安易に同情するわけにはいかないと身が引き締まる。
震災前にジャズ喫茶を営んでいた方が避難所で音楽とコーヒーをふるまう映像がふと目に留まった。我々被災者にとって今はストレスの発散場所が必要だと、津波に飲み込まれた店からレコードを運び出し、テントで簡易的に喫茶店を始めたのだという。インスタントではないコーヒーを飲みながら音楽に耳を傾ける時間がどれほどの癒しになるのか。それを想像してしばらく目を閉じてみた。
そういえば、正確な情報をいち早くつかむために僕が利用しているツイッターでは、被災地で過ごすある方がふと耳にした曲にしばしの安らぎを得たとつぶやいておられた。一瞬だけでも震災前のあのときに戻れた気がしたと。生まれ育った街は地震と津波でなくなってしまったが、心の中には喜怒哀楽とともにはっきりとあの時の光景が刻まれている。ある一つの曲がそれを呼び起こすきっかけになった。被災を免れた僕は、懐かしさのあまりにそれがかえって喪失感を生むのではないかと想像したが、必ずしもそうではなかった。
ある曲がきっかけで思い出がよみがえってくる。あの時のあの場所がふと浮かぶ。目で見ることはできなくなっても、心では感じることができる。音楽は被災者をこのようにして元気づけるものなのだと気づかされた。
スポーツもまた人を元気づける。音楽のようにはいかないにしても心を揺さぶるものとしてある。簡易球技場を作って走り回ることは無理にしても、アスリートの真剣勝負を映像に乗せて届けることくらいはできるはずだ。今まさにスポーツのあり方が問われている。
<11/04/05毎日新聞掲載分>
震災前にジャズ喫茶を営んでいた方が避難所で音楽とコーヒーをふるまう映像がふと目に留まった。我々被災者にとって今はストレスの発散場所が必要だと、津波に飲み込まれた店からレコードを運び出し、テントで簡易的に喫茶店を始めたのだという。インスタントではないコーヒーを飲みながら音楽に耳を傾ける時間がどれほどの癒しになるのか。それを想像してしばらく目を閉じてみた。
そういえば、正確な情報をいち早くつかむために僕が利用しているツイッターでは、被災地で過ごすある方がふと耳にした曲にしばしの安らぎを得たとつぶやいておられた。一瞬だけでも震災前のあのときに戻れた気がしたと。生まれ育った街は地震と津波でなくなってしまったが、心の中には喜怒哀楽とともにはっきりとあの時の光景が刻まれている。ある一つの曲がそれを呼び起こすきっかけになった。被災を免れた僕は、懐かしさのあまりにそれがかえって喪失感を生むのではないかと想像したが、必ずしもそうではなかった。
ある曲がきっかけで思い出がよみがえってくる。あの時のあの場所がふと浮かぶ。目で見ることはできなくなっても、心では感じることができる。音楽は被災者をこのようにして元気づけるものなのだと気づかされた。
スポーツもまた人を元気づける。音楽のようにはいかないにしても心を揺さぶるものとしてある。簡易球技場を作って走り回ることは無理にしても、アスリートの真剣勝負を映像に乗せて届けることくらいはできるはずだ。今まさにスポーツのあり方が問われている。
<11/04/05毎日新聞掲載分>
「ここではないどこかへの想像力」身体観測第116回目。 [『身体観測』]
東北・関東地方を襲った未曾有の大地震から2週間が経とうとしている。まるで映画のワンシーンかのような津波からは自然の恐ろしさを痛感し、福島第一原子力発電所で起きた事故からは原子力の危険性について今も考えさせられている。同じ日本列島にいる者として、幸運にも被災を免れた者として、まるで喉元に刃物を突きつけられたかのような戦慄とともにこの大震災とどのように向き合えばよいのかをあの日以来ずっと考え続けている。
誤解を恐れずに言えば神戸にいる僕にとっては「ここではないどこか」の出来事であるという実感はどうしても否定できない。仕事があり、友人との約束があり、当たり前のようにいつも通りの時間が流れているからである。大地震以前の日常と比べれば多少の自粛モードが漂っているにしても表向きはそう変化していない。だが心の内は違う。まったく違ってしまった。いつもと変わらぬ日々を過ごしながらも心の大部分は「ここではないどこか」に縛られている。直接的にはほとんど何も支援できない自らの無力さに心が痛んでいる。
この無力感といかにしてつき合うかがとても大切なことではないかと思っている。その重厚感に耐えきれず自分には関係のないことだと切り離してしまえば楽になるかもしれない。また、そのすべてを引き受けるべく日常を投げ出して被災地に赴けば解消されるかもしれない。でもおそらくはこのどちらでも救われない。この両極の間で絶えず揺らぎ続けること。つまり、同胞の悲哀にありったけの想像力を注ぎつつ自らにできることを日常の中から探し出し、日々を笑って過ごす。これが被災を免れた人に求められる振る舞いだろうと思う。
あくまでも「ここではないどこか」は今いる場所とは地続きである。この実感を手繰り寄せるための想像力は決して手放さない。
<11/03/22毎日新聞掲載分>
誤解を恐れずに言えば神戸にいる僕にとっては「ここではないどこか」の出来事であるという実感はどうしても否定できない。仕事があり、友人との約束があり、当たり前のようにいつも通りの時間が流れているからである。大地震以前の日常と比べれば多少の自粛モードが漂っているにしても表向きはそう変化していない。だが心の内は違う。まったく違ってしまった。いつもと変わらぬ日々を過ごしながらも心の大部分は「ここではないどこか」に縛られている。直接的にはほとんど何も支援できない自らの無力さに心が痛んでいる。
この無力感といかにしてつき合うかがとても大切なことではないかと思っている。その重厚感に耐えきれず自分には関係のないことだと切り離してしまえば楽になるかもしれない。また、そのすべてを引き受けるべく日常を投げ出して被災地に赴けば解消されるかもしれない。でもおそらくはこのどちらでも救われない。この両極の間で絶えず揺らぎ続けること。つまり、同胞の悲哀にありったけの想像力を注ぎつつ自らにできることを日常の中から探し出し、日々を笑って過ごす。これが被災を免れた人に求められる振る舞いだろうと思う。
あくまでも「ここではないどこか」は今いる場所とは地続きである。この実感を手繰り寄せるための想像力は決して手放さない。
<11/03/22毎日新聞掲載分>
「理想のリーダー像とは」身体観測第115回目。 [『身体観測』]
スポーツ指導者の端くれとして今も頭を悩まし続けるのは、「理想のリーダー像とはいかなるものか」についてである。チームの結束を固めるためにはどうふるまえばよいのかを考える上で、理想のリーダー像を頭に描いておくことはとても大切である。世間一般に考えられている理想のリーダー像とは、決断力と行動力を兼ね備え、率先して周囲にいる人間を引っ張っていくような人物であるが、もしこれが本当なら僕にはリーダーとしてやっていく自信がない。そもそもの性格が優柔不断で強制的な言葉遣いを苦手とする僕がリーダーとしての務めを全うするにはどうすればいいのだろうか。
ほとんど絶望的かもしれないとあきらめかけていたとき、ある言葉のおかげで一縷の望みが生まれた。かの松下幸之助が、リーダーが身につけておくべき3つの資質に「愛嬌があること」と「運が強そうなこと」と「後ろ姿」を挙げていたからである。実を言えば一読しただけではその本質をよく理解できなかったのだが、真意を探るべく掘り下げた哲学者・鷲田清一の言葉に目から鱗が落ちたのである。
愛嬌がある人間にはスキがある。だからこっちがしっかりしていないとという気を起こさせる。運が強そうな人が近くにいればどんなことでもできそうな気になる。新しいことにも挑戦しようと意欲的になる。思わず見とれてしまう後ろ姿は謎を蔵している。この人は何を考えているのだろうと想像力がかき立てられる。つまり、これらの資質はすべて周囲の人を能動的にするのである。
ちょっと頼りないけれどひたすら陽気で細かなことを気にしない人。こんなリーダーの下ならミスを気にせず伸び伸びと楽しくプレーできるに違いない。それにこっちなら僕にも目指せそうな気がする。後ろ姿に哀愁が漂うまでにはかなりの時間がかかりそうだけど。
<11/03/08毎日新聞掲載分>
ほとんど絶望的かもしれないとあきらめかけていたとき、ある言葉のおかげで一縷の望みが生まれた。かの松下幸之助が、リーダーが身につけておくべき3つの資質に「愛嬌があること」と「運が強そうなこと」と「後ろ姿」を挙げていたからである。実を言えば一読しただけではその本質をよく理解できなかったのだが、真意を探るべく掘り下げた哲学者・鷲田清一の言葉に目から鱗が落ちたのである。
愛嬌がある人間にはスキがある。だからこっちがしっかりしていないとという気を起こさせる。運が強そうな人が近くにいればどんなことでもできそうな気になる。新しいことにも挑戦しようと意欲的になる。思わず見とれてしまう後ろ姿は謎を蔵している。この人は何を考えているのだろうと想像力がかき立てられる。つまり、これらの資質はすべて周囲の人を能動的にするのである。
ちょっと頼りないけれどひたすら陽気で細かなことを気にしない人。こんなリーダーの下ならミスを気にせず伸び伸びと楽しくプレーできるに違いない。それにこっちなら僕にも目指せそうな気がする。後ろ姿に哀愁が漂うまでにはかなりの時間がかかりそうだけど。
<11/03/08毎日新聞掲載分>
「楽しさを伝えること」身体観測第114回目。 [『身体観測』]
菅平高原でのスキー実習を終えて帰ってきた。ラグビー選手にとっては馴染みが深く現役時代に幾度となく訪れたその場所でスキーを教えていると、なんだか不思議な気分になる。1500m走などの体力測定や、緊張感たっぷりで臨んだセレクションマッチがふと思い出されて嫌な汗が出る。この場所に縁があることを思い知らされる。
ラグビーはお手の物でもスキーはまだまだ未熟である。その面白さにすっかり虜になってはいるが、技術的には物足りない。急斜面では板が滑ることもままある。しかし、バランスを保ちながら雪面状況に応じて上手く滑れたときは何とも言えず心地よい。板と自分が一体化し、大げさに言えば自然と同化したような感覚さえ覚える。
経験が浅かったので昨年までは補佐的な役割だったが、今年度からは単独で班を担当することになった。専門書を読んだり指導者講習に参加したりと、それなりの準備はしたもののやはり一抹の不安は払拭できず、当日になるまでずっと考え込んでいた。心血を注いできたラグビーならいざ知らず、まだまだ経験の浅いスキーを教えることなんてできるのだろうか。今の僕に何を教えることができるのだろうと、自問自答を繰り返していた。
迷いとためらいを押し殺しつつ講習をしていると、あるときにふと気がついた。特別な技術は教えられないけどスキーの楽しさは伝えることができる。うまくターンできたときの快感、とにかくこれを体験させてあげよう。そこから形式的な練習よりもたとえ話を駆使しながら滑る時間を増やすように心掛けた。これでよかったのかどうかの判断は僕にはまだできないが、最終日に学生が口にした「もっと滑りたい」という言葉にひとまず胸を撫で下ろしている。
スポーツは楽しむもの。ほぼ未経験に近いスキーを指導する中で再確認した次第である。
<11/02/22毎日新聞掲載分>
ラグビーはお手の物でもスキーはまだまだ未熟である。その面白さにすっかり虜になってはいるが、技術的には物足りない。急斜面では板が滑ることもままある。しかし、バランスを保ちながら雪面状況に応じて上手く滑れたときは何とも言えず心地よい。板と自分が一体化し、大げさに言えば自然と同化したような感覚さえ覚える。
経験が浅かったので昨年までは補佐的な役割だったが、今年度からは単独で班を担当することになった。専門書を読んだり指導者講習に参加したりと、それなりの準備はしたもののやはり一抹の不安は払拭できず、当日になるまでずっと考え込んでいた。心血を注いできたラグビーならいざ知らず、まだまだ経験の浅いスキーを教えることなんてできるのだろうか。今の僕に何を教えることができるのだろうと、自問自答を繰り返していた。
迷いとためらいを押し殺しつつ講習をしていると、あるときにふと気がついた。特別な技術は教えられないけどスキーの楽しさは伝えることができる。うまくターンできたときの快感、とにかくこれを体験させてあげよう。そこから形式的な練習よりもたとえ話を駆使しながら滑る時間を増やすように心掛けた。これでよかったのかどうかの判断は僕にはまだできないが、最終日に学生が口にした「もっと滑りたい」という言葉にひとまず胸を撫で下ろしている。
スポーツは楽しむもの。ほぼ未経験に近いスキーを指導する中で再確認した次第である。
<11/02/22毎日新聞掲載分>
「相撲は神事」身体観測第113回目。 [『身体観測』]
大相撲の八百長問題が世間を騒がせている。携帯電話でのメールのやり取りから八百長が発覚し、事態を重くみた日本相撲協会は大阪での春場所を中止する決断を下した。さらには年内に予定されていた全巡業も取りやめ、本場所の無期限中止という前代未聞の事態にまで発展している。日本の国技である大相撲は今後どうなってしまうのだろうか。
一連の報道をテレビや新聞でよく目にするが、その度にやるせなくなる。相撲界に対してこれみよがしに断罪する評論家やコメンテーターや専門家の語り口があまりにも鋭利すぎるからだ。まさに弱い者いじめである。誤解しないで欲しいが、決して八百長を認めるわけではない。認めるわけではないが、そこまで追い込まなくてもよいと思う。真剣勝負だと信じていたファンを裏切り、国技としての権威を貶めたのかもしれないにしても、みんなで寄って集って袋だたきにする構図は見ていて心苦しいものがある。
八百長問題が発覚したとき、僕はほとんど驚かなかった。相撲に八百長があることくらい薄々感づいていたから「やっぱりそうだったのか」と思っただけだった。だから、あたかもまったく知らなかったような口調で正論を語る人たちをどこか信じられないでいる。もし本当に知らなかったとしたらそれはあまりにナイーブすぎるだろう。取組のすべてが八百長ではないことくらい一目瞭然だし、今さら目くじら立ててどうしようというのか。
あくまでも相撲はスポーツではなく神事である。これを忘れてはいけない。五穀豊穣を祈念する神事として江戸時代から続いてきた相撲に、明治期に初めて日本へ流入した近代スポーツの論理をそのまま宛がうのは筋違いだろう。勝ち負けとは別の論理で八百長問題を考えてみれば、これほどまでに騒ぎ立てる必要があるのかどうか。甚だ疑問である。
<11/02/08毎日新聞掲載分>
一連の報道をテレビや新聞でよく目にするが、その度にやるせなくなる。相撲界に対してこれみよがしに断罪する評論家やコメンテーターや専門家の語り口があまりにも鋭利すぎるからだ。まさに弱い者いじめである。誤解しないで欲しいが、決して八百長を認めるわけではない。認めるわけではないが、そこまで追い込まなくてもよいと思う。真剣勝負だと信じていたファンを裏切り、国技としての権威を貶めたのかもしれないにしても、みんなで寄って集って袋だたきにする構図は見ていて心苦しいものがある。
八百長問題が発覚したとき、僕はほとんど驚かなかった。相撲に八百長があることくらい薄々感づいていたから「やっぱりそうだったのか」と思っただけだった。だから、あたかもまったく知らなかったような口調で正論を語る人たちをどこか信じられないでいる。もし本当に知らなかったとしたらそれはあまりにナイーブすぎるだろう。取組のすべてが八百長ではないことくらい一目瞭然だし、今さら目くじら立ててどうしようというのか。
あくまでも相撲はスポーツではなく神事である。これを忘れてはいけない。五穀豊穣を祈念する神事として江戸時代から続いてきた相撲に、明治期に初めて日本へ流入した近代スポーツの論理をそのまま宛がうのは筋違いだろう。勝ち負けとは別の論理で八百長問題を考えてみれば、これほどまでに騒ぎ立てる必要があるのかどうか。甚だ疑問である。
<11/02/08毎日新聞掲載分>
「準備運動って必要?」身体観測第112回目。 [『身体観測』]
近所の公園は休日になるとたくさんの子どもたちが集まる。散歩の途中などに立ち止まって遊んでいる様子を眺めたりもするのだが、子どもたちはみな公園に着くや否やすぐに駆け出していく。たとえ冬の寒い日であってもストレッチなどをせずにいきなり跳んだり跳ねたりする。
その光景を見ていつも考えてしまうのは準備運動の必要性である。準備運動をしなければいけないと私たちは知らず知らずのうちに思い込んでいるが、果たしてそれは本当なのだろうか。
あれは確か現役時代も晩年だった。コンビニに向かう道すがら横断歩道を渡ろうとしたとき、ちょうど信号が点滅を始めたので慌てて駆け出した。しかし身体は思うように動かず、滑らかに脚を繰り出せない。足首や膝などの関節が油の切れた歯車のようにギシギシと音を立てて軋んでいるのがわかる。ストレッチをせず急に走り始めれば身体が軋むのは仕方がないといつもは意に介さないのだが、このときは違った。横断歩道を渡り終えた瞬間にいわれのない違和感が襲ったのである。
もしも目の前で道路に飛び出した子どもがいても今の僕では助けられないかもしれない。万引き犯を捕まえることもままならないじゃないか。緊急事態に対応できなさそうな自らに愕然としてしまった。ストレッチをしなければ走れないなんて情けないことはない。ちょうどこの頃は湯船に浸かったりエアロバイクで汗を流したり、準備運動に余念がない時期だった。
準備運動に頼りすぎればそれなしでは動けない身体になる。やや乱暴な決めつけかもしれないが、あのときの違和感に正直になればどうしてもこう結論づけるしかない。条件付きの限定的な身体を作るのに準備運動が一役買っている。こう断言するには時期尚早かもしれないが、その可能性については常に想像を及ぼしておきたい。
<11/01/25毎日新聞掲載分>
その光景を見ていつも考えてしまうのは準備運動の必要性である。準備運動をしなければいけないと私たちは知らず知らずのうちに思い込んでいるが、果たしてそれは本当なのだろうか。
あれは確か現役時代も晩年だった。コンビニに向かう道すがら横断歩道を渡ろうとしたとき、ちょうど信号が点滅を始めたので慌てて駆け出した。しかし身体は思うように動かず、滑らかに脚を繰り出せない。足首や膝などの関節が油の切れた歯車のようにギシギシと音を立てて軋んでいるのがわかる。ストレッチをせず急に走り始めれば身体が軋むのは仕方がないといつもは意に介さないのだが、このときは違った。横断歩道を渡り終えた瞬間にいわれのない違和感が襲ったのである。
もしも目の前で道路に飛び出した子どもがいても今の僕では助けられないかもしれない。万引き犯を捕まえることもままならないじゃないか。緊急事態に対応できなさそうな自らに愕然としてしまった。ストレッチをしなければ走れないなんて情けないことはない。ちょうどこの頃は湯船に浸かったりエアロバイクで汗を流したり、準備運動に余念がない時期だった。
準備運動に頼りすぎればそれなしでは動けない身体になる。やや乱暴な決めつけかもしれないが、あのときの違和感に正直になればどうしてもこう結論づけるしかない。条件付きの限定的な身体を作るのに準備運動が一役買っている。こう断言するには時期尚早かもしれないが、その可能性については常に想像を及ぼしておきたい。
<11/01/25毎日新聞掲載分>
「引き分けという結末」身体観測第111回目。 [『身体観測』]
早いもので現役を退いてから4度目の正月を迎えた。正月の楽しみはラグビー観戦と決まっており、高校、大学、トップリーグと今年もたくさんの試合に心を踊らせた。大学選手権は帝京大学が尻上がりに調子を上げ、決勝で早稲田大学を破って2連覇を達成。対抗戦4位からの躍進には驚きを隠せなかった。トップリーグはこれからが正念場。東芝、三洋電機、トヨタ自動車、サントリーのトップ4が優勝をかけて競い合う。例年になく実力が伯仲しているだけにどこが勝ってもおかしくない。熱き戦いに注目だ。
ひたむきな姿に心打たれる高校ラグビーは毎年面白い試合が繰り広げられる。今年も例外なく目を奪われる試合が多かった。準々決勝は、東海大仰星が試合終了間際に決まれば逆転となるPGを外して桐蔭学園に敗退するという劇的な幕切れ。キックを外した責任から号泣する仲間の肩を抱き、オマエは悪くないんだと励ましながら自らも号泣する選手の姿に思わず目頭が熱くなる。真剣に取り組むからこそ仲間に優しくなれるし熱くもなれる。
決勝戦はまれに見る好ゲームだった。2連覇を目指す東福岡と初優勝を狙う桐蔭学園との試合。序盤は展開力に優る桐蔭学園が有利に試合を進め、後半の始めまでに大量21点のリードを奪う。桐蔭がこのまま逃げ切るかと思われたのも束の間、前年度優勝校は徐々に実力を発揮しはじめる。
東福岡は強みであるFWを全面に押し出し、徹底的に局地戦を仕掛け続けた。機動力はあるがやや軽量な桐蔭FWはわずかずつ後退を余儀なくされ、執拗な肉弾戦に体力が奪われていく。じわりじわりと攻め続けた東福岡はやがて3本のトライを奪って同点に追いつく。そして試合が終了。両校優勝となった。
引き分けという結末が相応しいほどに素晴らしい試合だったように思う。今年の花園もまた面白かった。
<11/01/11毎日新聞掲載分>
ひたむきな姿に心打たれる高校ラグビーは毎年面白い試合が繰り広げられる。今年も例外なく目を奪われる試合が多かった。準々決勝は、東海大仰星が試合終了間際に決まれば逆転となるPGを外して桐蔭学園に敗退するという劇的な幕切れ。キックを外した責任から号泣する仲間の肩を抱き、オマエは悪くないんだと励ましながら自らも号泣する選手の姿に思わず目頭が熱くなる。真剣に取り組むからこそ仲間に優しくなれるし熱くもなれる。
決勝戦はまれに見る好ゲームだった。2連覇を目指す東福岡と初優勝を狙う桐蔭学園との試合。序盤は展開力に優る桐蔭学園が有利に試合を進め、後半の始めまでに大量21点のリードを奪う。桐蔭がこのまま逃げ切るかと思われたのも束の間、前年度優勝校は徐々に実力を発揮しはじめる。
東福岡は強みであるFWを全面に押し出し、徹底的に局地戦を仕掛け続けた。機動力はあるがやや軽量な桐蔭FWはわずかずつ後退を余儀なくされ、執拗な肉弾戦に体力が奪われていく。じわりじわりと攻め続けた東福岡はやがて3本のトライを奪って同点に追いつく。そして試合が終了。両校優勝となった。
引き分けという結末が相応しいほどに素晴らしい試合だったように思う。今年の花園もまた面白かった。
<11/01/11毎日新聞掲載分>
「負けず嫌いな性格」身体観測第110回目。 [『身体観測』]
今は「負けの美学」についてあれこれ考えている僕でも、その昔は大の負けず嫌いであった。小学生のころは、家事に勤しむ母に頼み込み1度限りの条件で許された将棋も負ければ泣きながら「もう1回」と駄々をこねる始末だったというし、親戚とのトランプでも負ければ露骨に悔しそうな顔を浮かべ、勝つまでやめようとはしなかったのだと言う。負けるのが嫌でもそこまで往生際が悪かったとは知らなかった。
それがいつからか競争することが億劫になった。優劣をはっきりさせることにどれだけの意味があるのか。そんな考えが漠然と胸中に去来したのは大学生になってからである。今だから言えるが、当時は試合を終えた夜にみんなで集まって酒を飲むことが恒例になっていた。その日の試合のある場面を巡って意見を戦わせたり、先輩と後輩が普段はできない話に花を咲かせたり、ときにはとことん朝まで語り合うことだってあった。
そのすべてを覚えているわけではないが、わずかに残る記憶を辿れば話題の中心は勝ち負けではなかったと思う。勝った日は楽観的に語り、負けた日はやや深刻に、その日の試合を総括する。悔しさが滲み出ることはあっても露骨に出さないあの心地よさが、負けず嫌いな性格を解してくれたのかもしれない。
将棋は最後まで勝敗を決することをよしとしない。ほぼ勝敗が決したタイミングで負けを認めて「投了」となる。なぜ最後まで指さずに負けを認めるのか、幼き頃はその精神を理解できなかったが、今となれば少しわかる気がする。勝敗よりも勝負が決した瞬間を共有することに重きを置いたのだ。おそらくは勝者と敗者を分かつのではなくつなげるために。勝負が生み出す悔恨や傲慢を中和するために。
負けず嫌いな性格は生まれつきであっても勝負意識は熟成されていく。たぶんそういうことだ。
<10/12/28毎日新聞掲載分>
それがいつからか競争することが億劫になった。優劣をはっきりさせることにどれだけの意味があるのか。そんな考えが漠然と胸中に去来したのは大学生になってからである。今だから言えるが、当時は試合を終えた夜にみんなで集まって酒を飲むことが恒例になっていた。その日の試合のある場面を巡って意見を戦わせたり、先輩と後輩が普段はできない話に花を咲かせたり、ときにはとことん朝まで語り合うことだってあった。
そのすべてを覚えているわけではないが、わずかに残る記憶を辿れば話題の中心は勝ち負けではなかったと思う。勝った日は楽観的に語り、負けた日はやや深刻に、その日の試合を総括する。悔しさが滲み出ることはあっても露骨に出さないあの心地よさが、負けず嫌いな性格を解してくれたのかもしれない。
将棋は最後まで勝敗を決することをよしとしない。ほぼ勝敗が決したタイミングで負けを認めて「投了」となる。なぜ最後まで指さずに負けを認めるのか、幼き頃はその精神を理解できなかったが、今となれば少しわかる気がする。勝敗よりも勝負が決した瞬間を共有することに重きを置いたのだ。おそらくは勝者と敗者を分かつのではなくつなげるために。勝負が生み出す悔恨や傲慢を中和するために。
負けず嫌いな性格は生まれつきであっても勝負意識は熟成されていく。たぶんそういうことだ。
<10/12/28毎日新聞掲載分>
「“史上最弱”の称号」身体観測第109回目。 [『身体観測』]
同志社大学ラグビー部が関西リーグ7位に終わり、全国大学選手権の出場を逃すとともに下部リーグとの入れ替え戦に回る。この事実を知ったときはさすがに驚きを隠せなかった。ここ数年の戦績が振るわなかったにしてもまさか大学選手権への出場が絶たれることになろうとは、OBをはじめとする関係者一同、夢にも思わなかったに違いない。ましてや入れ替え戦を戦うなど誰が想像できたであろうか。
僕が4回生の時の成績は関西リーグ5位だった。関西第5代表決定戦に勝利し、かろうじて大学選手権には出場できたものの、1回戦で現在ほど実力が抜きん出ていない早稲田大学に敗退を喫する。前年度には大学選手権準決勝に駒を進めたこともあり、「今年はいけるぞ」という関係者やファンからの期待は大きかった。そうした中での関西5位である。期待が大きかっただけにその落胆振りは著しく、卒業後も先輩方から「関西5位チーム」と揶揄され続けた。
こんな経験も今となれば懐かしい思い出として酒を飲みながら楽しく話ができる。だが、卒業してしばらくは期待に応えられなかった悔しさを引きずっていた。同志社ラグビー史上最弱の学年であることの後ろめたさがあった。ラグビーが頭の中のほぼすべてを埋め尽くしていた学生時代の僕にとっては受け入れがたい現実であり、できることならやり直したい。そんな想いも心のどこかにあった。
このたび同志社史上最弱を更新された。新たな最弱メンバーに元最弱経験者から一言だけ言わせてもらえるならば、勝負は水物だということ。勝つときもあれば負けるときもある。こちらがどれだけ最高のパフォーマンスをしたところで相手がそれを上回れば負けるのだ。という勝負の本質をふまえた上で、「史上最弱」がいつか酒の肴になる日まで大いに頭を抱えればよい。
<10/12/14毎日新聞掲載分>
僕が4回生の時の成績は関西リーグ5位だった。関西第5代表決定戦に勝利し、かろうじて大学選手権には出場できたものの、1回戦で現在ほど実力が抜きん出ていない早稲田大学に敗退を喫する。前年度には大学選手権準決勝に駒を進めたこともあり、「今年はいけるぞ」という関係者やファンからの期待は大きかった。そうした中での関西5位である。期待が大きかっただけにその落胆振りは著しく、卒業後も先輩方から「関西5位チーム」と揶揄され続けた。
こんな経験も今となれば懐かしい思い出として酒を飲みながら楽しく話ができる。だが、卒業してしばらくは期待に応えられなかった悔しさを引きずっていた。同志社ラグビー史上最弱の学年であることの後ろめたさがあった。ラグビーが頭の中のほぼすべてを埋め尽くしていた学生時代の僕にとっては受け入れがたい現実であり、できることならやり直したい。そんな想いも心のどこかにあった。
このたび同志社史上最弱を更新された。新たな最弱メンバーに元最弱経験者から一言だけ言わせてもらえるならば、勝負は水物だということ。勝つときもあれば負けるときもある。こちらがどれだけ最高のパフォーマンスをしたところで相手がそれを上回れば負けるのだ。という勝負の本質をふまえた上で、「史上最弱」がいつか酒の肴になる日まで大いに頭を抱えればよい。
<10/12/14毎日新聞掲載分>
「つけるものか、つくものか」身体観測第108回目。 [『身体観測』]
スポーツが上手くなるためには筋力トレーニングが不可欠である。この考え方が社会全体に広がりつつある。端的に運動能力を上げるには筋肉をつければよいという考えが私たちの意識に根を張りつつある。
筋肉はつけるものか、つくものか。「身体」の研究を始めてからずっと考え続けている問いだ。意図的につけるものか、それとも自然につくものか。「つくもの」であるという結論に達しながらも、まだ絶対的な確信をもてないでいるのがもどかしい。
建築現場で資材を運び、高所を軽々と移動する人たちの運動能力は高い。そばを通りかかれば思わず見とれてしまうほどに軽やかだ。タンスなどの重い家具を手際よく楽々と運ぶ引っ越し屋の人たちの動きも然り。当然のようにあの人たちは筋トレなどしてはいない。スポーツ選手ほどムキムキではなく、むしろ細身に映るその身体は動きの中で自然に培われたものだ。
かの長島茂雄や王貞治は徹底的にバットを振り抜くことであれだけの実績を残したと言われている。スポーツ科学に基づく筋トレをせずとも、後世にまで語り継がれるほどの華麗な動きを披露し、未だ破られていない通算本塁打868本という記録を残したという事実がすべてを物語っていよう。筋肉はあくまでも動きを通じて身についていく。これを疑う余地はない。
身近なところからアスリートの世界まで、少し見渡すだけでも筋トレの必要性に懐疑的なまなざしを向けることは簡単である。にもかかわらず「不要である」とはっきり断定できないのは、僕自身が筋トレ経験者だからである。華奢だった僕がラグビー選手としてやってこられたのは筋トレのおかげかもしれないという後ろめたさ。これがまだ払拭できない。だからしばらくはこうした揺らぎのうちに、スポーツ界を席巻する筋肉偏重主義に物申していくつもりだ。
<10/11/30毎日新聞掲載分>
筋肉はつけるものか、つくものか。「身体」の研究を始めてからずっと考え続けている問いだ。意図的につけるものか、それとも自然につくものか。「つくもの」であるという結論に達しながらも、まだ絶対的な確信をもてないでいるのがもどかしい。
建築現場で資材を運び、高所を軽々と移動する人たちの運動能力は高い。そばを通りかかれば思わず見とれてしまうほどに軽やかだ。タンスなどの重い家具を手際よく楽々と運ぶ引っ越し屋の人たちの動きも然り。当然のようにあの人たちは筋トレなどしてはいない。スポーツ選手ほどムキムキではなく、むしろ細身に映るその身体は動きの中で自然に培われたものだ。
かの長島茂雄や王貞治は徹底的にバットを振り抜くことであれだけの実績を残したと言われている。スポーツ科学に基づく筋トレをせずとも、後世にまで語り継がれるほどの華麗な動きを披露し、未だ破られていない通算本塁打868本という記録を残したという事実がすべてを物語っていよう。筋肉はあくまでも動きを通じて身についていく。これを疑う余地はない。
身近なところからアスリートの世界まで、少し見渡すだけでも筋トレの必要性に懐疑的なまなざしを向けることは簡単である。にもかかわらず「不要である」とはっきり断定できないのは、僕自身が筋トレ経験者だからである。華奢だった僕がラグビー選手としてやってこられたのは筋トレのおかげかもしれないという後ろめたさ。これがまだ払拭できない。だからしばらくはこうした揺らぎのうちに、スポーツ界を席巻する筋肉偏重主義に物申していくつもりだ。
<10/11/30毎日新聞掲載分>






