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勝負の綾。 [あんなことやこんなこと]

新年度が始まって1週間が過ぎた。担当する科目の配当年次が変更されたので今年度はコマ数が減り、週に6コマとなった。昨年よりも少し余裕が生まれたわけで、準備にも時間をかけることができるし研究にも時間を割くことができる。うれしい。


そういえば昨日、久しぶりに役満を上がった。四暗刻。師匠や先輩や友人や後輩が集まっての麻雀大会を月に一度開催しているのだが、昨年の後半から絶不調で勝負に出た牌すべてが裏目に出ること数知れず。そうしたことが重なると、そもそも勝負に出ることが臆病になる。完全なる負けパターンだ。長いトンネルに迷い込んだ感ありありだったのだが、昨日でようやく出口が見えたようである。ふう。


それにしても麻雀というのはよくできたゲームだと思う。4人の共身体が織りなす卓の上では不思議なことが起こる。ツキの流れが生まれて、勝利の女神が行ったり来たりする。麻雀だけに僕たちは「雀神様」と称しているが、この雀神様はスタンドプレーに走る人には素っ気ない。引くときは引く、行くときは行く、この塩梅が絶妙で、しかも場の流れに沿うかたちで行われたときには、信じられないくらいにツク。4人の駆け引きが生み出す流れを読み切って、ふっと生まれたチャンスを逃さずに勝負に出る。これが、たまらんのですよ、ね。


勝負の綾を感じる。どこまでいってもいくつになってもやっぱりオモロいもんです。


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思考にはそれ相応の筋肉がいる。 [あんなことやこんなこと]

しとしと雨が降り出した研究室で書き始める。小関勲さんのバランスメソッドについて調べていたらあっという間にこんな時間に。午前中に会議をひとつ終え、いつもの喫茶店で昼食を済ませてからずっとデスクに向かっていた。合間に江さんとツイッターで音楽とラグビーに共通する身体運用をめぐってやりとりしたが、それ以外はずっと画面と資料を行ったり来たり。わりと集中できた。ただ背中がバリバリで、目もパシパシに乾いていて、もう何年もこうして仕事をしているにもかかわらずまだまだデスクワークには慣れない。とほほ。


さてと、3月も半ばを過ぎた今になってようやく今年度に積もり積もったあれこれを肩から下ろすことができた。この「あれこれ」とはいったいなにかというと、「しぶしぶ先送りにしてきた思考」のことだ。会議や打ち合わせや入試業務や高校訪問などの目先のやるべき仕事に追われていると研究活動はやむを得ず先送りにせざるを得ない。やはり「ああでもない、こうでもない」とじっくり考えるためにはまとまった時間がいる。誰にも邪魔されないことが見通せる、静謐な時間と空間が必要である。毎年恒例のスキー実習を2月末に終え、ときどき会議があるものの講義や学生相談がない春休み期間に入ってからずっと、この「あれこれ」と取っ組み合ってきた。意識のデスクトップに引っ掛けていた「あれこれ」をひとつひとつ収納することができつつあることに、ホッとしているのである。


発生論的運動学に基づいて身体論を研究する僕はコツやカンといった感覚をどうにかこうにか言葉にしようと取り組んでいるわけで、そのときもっとも頼りにしている或は拠り所にしているのが「身近で感じる体感」である。平易にいえば「感じる」ってことで、感情が揺れ動いた、心が波打った、その瞬間をつかまえること。身体を直接的に動かして様々なメソッドを試しているときも、文献を読み進めているときも、同じように「うん?」「!!!」となる瞬間があり、それを大切にしている。


だから本音を言えばところ構わず思考を始めたい。身体のことはその気になればいつでもどこでも研究のネタをつかむことが可能だからだ。バランスボードに乗っているときや四股を踏んでいるときはもちろん、ただ歩いているだけのときや会議中や雑談中も飲み会の席でだって、「うん?」や「!!!」はみつかる。自分の体感をじっくり探ればなにがしかのフィードバックはある。


これを教えてくれたのは甲野善紀先生である。かなり以前だが丸一日お供をさせてもらったことがあって、そのとき甲野先生はずっと自らの身体に意識を向けて「内観」されていた。移動中の車や電車の中でも腕を上げたり、肩を動かしたり、絶えず身体を動かしておられた。そんな先生の様子を間近で見て、ただ腕を上げ下げするという何気ない動作からでもその気になれば微妙な体感をつかまえることができるということを僕は学んだ。たとえここまで玄人仕込みでなかったとしても、駅や道で歩く人たちの身体を観察するだけで気づくこともあるわけで、つまるところ身体はいつでもどこでも遊べるものなのである。


いつのときもこうして思考ができるのが理想なのだが、如何せん勤め人だとそうは問屋が卸さない。心が波打ったものの30分後に教授会があるとなれば思考を開始するわけにはいかない。だから自動的にスイッチが入り、考えよう考えようと躍起になる身体をなんとかなだめすかし、いつも持ち歩くモレスキンのメモ帳にその断片を書き留めておく。諸々が落ち着いたあとになってその断片をもとに思考を始めようという魂胆だが、やはりアイデアの鮮度は落ちる。アイデアが生まれた瞬間の興奮そのままに再現できるわけではない。そこが悩ましい。ああ。


でもまあこれは半ば愚痴である。今のこの日常生活を営みつつ研究を深めていかねばならぬわけで、皆が皆こうした制約の中で絞り出すように研究成果を生み出しているのが現状だ。事務仕事のリズムと研究のための思考のリズムを自分の中にしっかり刻み付けつつ双方を調和させていく。今の僕に求められているのは自分なりの研究スタイルの確立だと思っていて、それはつまりこの調和だろうと思う。事務的な仕事と、思考を深めつつ原稿を書く仕事とは使う「筋肉」が違うことを意識し、この切り替えをいかにするかを課題として取り組んでいこう。理想は両方をつけることだが果たしてそんなにうまくいくかどうか。ひとまずやってみるとするか。


最後にひとつ告知です。
3月9日に朝日文庫から内田樹先生との共著『ぼくらの身体修行論』が発売されました。2007年に上梓した『合気道とラグビーを貫くもの』の増補版です。内容はほぼ同じですが、ボーナストラックとして昨夏に行った対談が収録されていますので、そこだけでも読んでいただければと思います。自分で言うのもなんですが、面白いです、ホントに。



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40歳を目前に。 [あんなことやこんなこと]

今年度も無事にスキー実習を終えて一区切りがついた。「採点の祭典」も終えた今、ようやく一息ついているのが正直なところである。


とにもかくにも慌ただしい日々を送りながら不平や不満をこぼしつつ、それでもやるべき仕事をこなしていく。「もう少し時間があれば」という言葉だけはなんとか飲み込まなければと、自らに言い訳することだけはしたくない一心でやっている。たぶんみんなそうやって目の前の仕事に打ち込んでいるのだと思う。少なくとも僕と同年代の人たちは、そうやって家族や会社や友だちや自分自身と、なんとか折り合いをつけている。つけようとしている。


僕は今年の5月で40歳を迎える。


今さらながらこの現実の重さを実感している。こんな40歳でいいのだろうかという漠然とした不安が40歳を間近に迎えた今になって重くのしかかっている。こんな頼りない自分でいいのだろうかと、これまでの歩みを振り返って頭を垂れる。ラグビーばかりに没頭して、世間なんてほとんど知らないままに今までよう生きてこれたよなあと、自分の能天気さに半ばあきれて言葉を失う。知らず知らずのうちにたくさんの人に迷惑をかけてきたんやろうと、再び頭を垂れる。


一部のスポーツを除けば、スポーツ選手が現役でいられる時間はごくわずかだ。
広島カープと再契約した黒田博樹投手が40歳と知り、驚いた。と同時に羨ましくも感じた。そうか、今の僕の年でもまだ目一杯に身体を使って挑戦し続けることができるのか。ラグビーと野球、それから実績の違いを考慮すれば身分不相応な羨望ではあるが、ただ単純に羨ましいと感じる。40歳まで現役で居続けられる身体を有していることへの羨望。競技能力を備えていることにはもちろんだが、それよりも怪我をしない身体を作ってきたその努力に僕は憧れを抱く。


ラグビー界にもそんな選手がいる。かつて同じチームにいた先輩で、今は釜石シーウェイブスに所属する伊藤剛臣選手、43歳。大きなケガをすることなくいまだ元気にグラウンドを走り回っていると、風の便りで耳にしている。うれしいかぎりだ。タケさんにはできる限りずっと現役でいて欲しい。大舞台で持てる力を如何なく発揮するあのパーソナリティはチームメイトを鼓舞するのに十分で、タケさんにつられて気持ちが昂った試合は数知れない。ここぞという時にこそ頼りになる先輩だった。


もうラグビー選手ではないことはアタマではわかっている。だけど、カラダはまだあのときの興奮を忘れていない。カラダは惰性が強い。たぶん40歳になってもずっとこの興奮をどこかで待望し続けるに違いない。40代への突入を機に僕が手に入れたいのは、この興奮を他のなにかに変換する装置だ。まどろっこしいことは言わずにおこう。この興奮を研究の動力源としたいと考えている。これまでもずっとこのことにはこだわって取り組んできたけれど、まだまだこの興奮を制御できずにいるのが現状だ。気を許せばたぎるように心が暴れ出す。まことに厄介だ。


ただ着実に、淡々とこの興奮とつき合っていこうと思う。
積極的に身体を使い、ときに酒を飲んで、書く。そうしよう。

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花園決勝東福岡vs御所実と『自由と規律』。 [ラグビー]

あけましておめでとうございます。
これだけ放置しておいていきなり更新するのは気が引ける。更新停滞に関する弁明を一言でも二言でも述べないと気がすまない。これまではそうだったのだが、今日のところは強引にすませることにする。というのは、この長期休養開けについての弁明をいかにして書くかに頭を悩ませていたことが、更新停滞を長引かせている一因でもあるからだ。


だから更新を楽しみに待っていた方々を思い浮べつつ、画面に向かって深々と頭を垂れて「すみません」と一言口にして、このまま書いていくことにする。私的なブログなのでどうぞご勘弁ください。


2015年が始まり、1週間が経とうとしている。講義は明日からだが、その準備や資料の整理などで朝から研究室に来ており、今日が仕事始めである。この年末年始は寝正月を過ごしたこともあるのか、油切れを起こしているかのような頭の回転の鈍さに仕事は殆ど捗らない。休みボケってやつだ。花園(高校ラグビー全国大会)や大学ラグビーの試合をひたすらテレビで観戦した影響もあるのだろう。細胞のひとつひとつがあのときの興奮を思い出してざわざわしている感じで、じっとデスクに座っていられないのだ。「ラグビーがしたい」という声なき声が身体の内奥でリフレインしている。


その高校ラグビー全国大会の決勝戦が明日に行われる。対戦カードは東福岡vs御所実業。数日前のツイッターで呟いたのだが、望んだ通りのカードになって僕はほくそ笑んでいる。


今年はなんといっても東福岡が強い。高校日本代表候補12人を擁し、個々の能力に秀でた選手が集まっていながらもそのチームプレーが素晴らしい。集団と個のバランスが高いレベルで保たれているその実力は計り知れず、高校レベルでは考えられない域に達していると見受けられる。周りにいるラグビー経験者ならびにラグビーウォッチャーの誰に聞いても「今年は東福岡でしょう」と口を揃えるくらいだ。


ベスト8の時点では東福岡の強さが際立っていた。おそらく他のどの高校も歯が立たない。そう思った。ただ一校を除いては。


東福岡をアップセットする。その可能性を感じさせたのは御所実業だった。


超高校級WTB竹山選手は歴代の選手と比較してもちょっとスケールが違う。ライン際でトライを奪うのはもちろん、ラックサイドでの突破力があり、リンクプレーヤーとしてのパスもうまく、さらにはプレースキッカーまで担うのだから恐れ入る。瞬間的な加速も群を抜いていて、絶えず肩の力が抜けたプレーぶりに大物感が漂っている。戦術的にも精神的にも彼を中心としてまとまっているのが御所実業である。


ただ、でも、東福岡と比較すればやや力不足の感はあった。東福岡以外のチームと比べればその強さに遜色はないが、まだまだ荒削りな試合運びが見て取れた。勝負所でミスをする、誰が見てもパスのタイミングなのに突破を試みてしまう、不用意なキックが散見されるなど、大きな流れに乗り切れていない。なにかが少し足りない。この「なにか」をうまく説明することは難しいが、あえてそこをいうとすれば「チームとしてのまとまり」になろうか。15人がまるでひとつの生命体のようにプレーする。ラグビーだけでなくどの集団スポーツにも理想のあり方だが、まだまだこの部分で不完全なようにみえたのだ。


とはいえ、その潜在能力は計り知れず。まだまだ眠っている力がこのチームにはある。もう少し試合を重ねれば開花するのではなかろうか。その期待を込めて、決勝戦を待っての東福岡との対戦を切望したのである(花園はベスト16からは対戦相手を決める際に毎回抽選を行うのである)。


準々決勝、準決勝を経て、御所実は案の定「チームとしてのまとまり」が深まりつつある。準決勝の京都成章戦は40点を奪い、完勝している。この点からも期待はできる。応援はしている。だが、それでも東福岡有利の見立ては変わらない。それほど実力が突出しているのだ。もし御所実が勝つとするならば、モールを多用するなどFW勝負を仕掛け、スローな展開に持ち込んで、ここぞというタイミングで竹山選手を走らせたときだろう。その意味ではFW勝負とBKへの展開の切り替え役である、主将も務めるSH吉川選手の判断が決め手となる。走り合い、点数の取り合いになると間違いなく東福岡に軍配が上がる。


なーんて、評論家ぶって好き放題に書いちゃいましたが、一ラグビーファンの戯れ言として読み捨て下さい。やはり花園は何歳になっても憧れであり、高校時代に出場が叶わなかった僕はたぶんずっと花園出場選手に憧憬の念を抱き続けるでありましょう。決勝戦、白熱の試合を期待しております。


年初め、最初にふと手に取ったのが池田潔『自由と規律』(岩波新書)でありました。頭の回転を挙げるべくアドバンスボードに乗っているときにふと目についたのがこの本の背表紙。もちろん再読なのですが、スポーツマンシップがなんたるものか、当時イギリスのパブリックスクールにおいて運動競技が意味するものはなんであったのか、読みながら徐々に背筋が伸びたのでした。ラグビーという運動競技が、現役選手やかつて選手だった私たちに教えてくれるのは、誤解を恐れずにいえばそれは自由と規律に尽くされると思います。


ラグビー三昧で幕を開けた2015年。最初のブログは次の言葉で括ります。


正しい主張は常に尊重され、それがために不当の迫害をこうむることがない。如何なる理由ありても腕力を揮うことが許されず、同時に腕力弱いがための、遠慮、卑屈、泣寝入りということがない。あらゆる紛争は輿論によって解決され、その輿論の基礎となるものは個々のもつ客観的な正邪の観念に外ならない。私情をすてて正しい判断を下すには勇気が要るし、不利な判断を下されて何等面子に拘ることなくこれに服すにも勇気を必要とする。彼等は、自由は規律をともない、そして自由を保障するものが勇気であることを知るのである。(池田潔『自由と規律』156−157頁)


今年もどうぞよろしく。



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出演イベントの告知です。

雨も上がって研究室にはさわやかな秋風が吹き込んでいる。夏休みも今日で終わりだ。明日からは秋学期の授業が始まるのだから時が経つのはおそろしいほどに早い。2014年もあと3ヶ月とちょっとか。今年はいろいろあったなあ、と振り返るにはまだ早過ぎるが。


そうなのです、振り返ってなどいられません。いよいよ明後日(27日)に拙著『近くて遠いこの身体』が発売となります。出来上がった本を目の前におきながらこうして書いているのですが、知らず知らずのうちに顔がにやけてきます。いざこうしてかたちになったものを眺めていると、やはり感慨深い気持ちになりますね。


ミシマガジンでの連載がまとまって単行本になったのですが、それに当たっての挨拶はこちらをお読み下さい。
(⇒http://www.mishimaga.com/chikakute/032.html


ここに書いた通り、本というものは著者だけでなく編集者や装丁家、そして編集会社の人たちに支えられて初めてかたちになる。脱稿した時点で僕の手から離れて一人立ちしたような寂しさを感じたのですけれど、それはまさにそういうことなんですよね。もう僕の手の中にはない。いわば巣立ちです。だからこれは「僕の」本というよりも「僕たち」の本です。


一冊の本に著者として関わった。そんな感覚が今の僕にはあります。こんな気持ちになるなんて書く前には想像すらしていませんでしたが、思いのほか心地よい。だからこその「にやけ」なのかもしれませんね。


さてさて、今日は発刊するにあたってのイベントやその他もろもろの告知をしておきます。


まずひとつ目。
【失われた身体感覚を求めて〜W刊行記念対談 平尾剛×三島邦弘】
拙著の編集者でもあり、地方で出版社をすることに挑むミシマ社代表の三島邦弘さんと、あれこれ語り合います。ほぼ同時期に発売された『失われた感覚を求めて』(朝日新聞出版)とのW刊行記念です。三島さんとは公の場でじっくり語り合いたいと思っていたので、今からとても楽しみです。皆様ぜひ足をお運び下さい。
日時:2014年10月16日(木)19:30〜
場所:スタンダードブックストア@心斎橋
料金:1200円(1ドリンク付き)
詳しい内容はこちらです↓
http://www.standardbookstore.com/archives/66159697.html

そしてふたつ目。
【「近くて遠いこの身体」(ミシマ社)刊行記念サイン会】
神戸のど真ん中にある書店で、しかも街に出たときには大概ぶらりと立ち寄る、馴染みのある書店でのサイン会に、心は躍っております。神戸にお住まいの皆様、買い物のついででも結構ですのでぜひお立ち寄り下さい。現在、予約を受付中です(電話予約もOK)。
日時:2014年10月26日(日)14:00〜
場所:ジュンク堂書店 三宮店(HMVの上)
詳しい内容はこちらです↓
http://www.junkudo.co.jp/mj/store/event_detail.php?fair_id=6928

ここからは本の刊行とは別のイベントです。


【とつとつダンスpart.2愛のレッスン 大阪公演】
このイベントのアフタートークゲストを務めます。「とつとつダンス」とは、ダンサー・振付家である砂連尾理氏が中心となって始めたもので、それをきっかけとして、砂連尾氏が老人ホームに入居しているおばあちゃんと一緒に踊る「シリーズとつとつ」が始まったのだといいます。公演を観て感じたことを話します。興味のある方はぜひ。
日時:2014年10月5日(日)14:00〜
場所:アートエリアB1(大阪市北区中之島1-1-1)
料金:全自由席(一般前売3000円/当日3500円)
詳しい内容はこちらです↓
http://torindo.org/【公演情報】とつとつダンス-part-2%E3%80%80愛のレッスン/


【「おとな旅・神戸2014−15秋冬」開幕トークセッション
 『神戸・大解説』】
作家の玉岡かおるさん、【老祥記】店主の曹英生さんとともに、パネリストを務めます。神戸のええとこ、語ります。
日時:2014年10月15日(水)18:30〜20:30
場所:慶應大阪シティキャンパス(グランフロント大阪ナレッジキャピタル)
料金:2000円(神戸のおみやげ付き)←これうれしいですよね
詳しい内容はこちらです↓
http://nakanoshima-univ.com/site/seminar/article/p20141015
ちなみにこの『おとな旅・神戸』で僕はラグビー観戦ツアーをします。年の瀬も押し迫った12月27日(土)にノエビアスタジアムで行われる神戸製鋼コベルコスティーラーズの試合を、僕の解説付きで観戦するという内容です。試合後は由緒正しき(?)ラグビーバー【THIRD ROW】で飲んだりもしますよ。ラグビーを知らない方も、もっと詳しく知りたい人も大歓迎です。詳細が決まり次第、告知しますので、どうぞお楽しみに。


というわけでちょいと忙しい10月ですけれど、はりきっていくとしますか。
まずは明日からの授業を丁寧に、だな。



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専門用語とのつき合い方。

先日のツイッターで深く得心したつぶやきがある。読み終えるや否やすぐにリツイートしたのだが、今日はその内容について思ったところを少し書いてみる。


まずは引用しておく。2014年9月8日に思想家の東浩紀がつぶやいた内容は以下の通りである。


哲学にしろなんにしろ、まずは基礎語彙の定義を明らかにしてから始めようとか言ってたらなにも理解は進まないのであって、「よくわからないまま専門用語の世界に飛び込んであるとき振り返ると突然わかる」という構造でしか修得はできない。ぼくはやらないけど、これたぶんスポーツの習熟と同じ。 その点でさらに付け加えれば、「ソクラテスの無知の知」というのは、要は、専門用語でがちがちになったひとに、ちょっとそれ忘れてリラックスしようよという勧めなのよね。スポーツで中級者に「体を意識するな」と教えるのと同じ(たぶん)。しかし初心者はむろん体を意識しないといけない。 というわけで、少なくとも哲学について言えば、ある段階から先は専門用語を使うのはダメで、いかに日常用語で「自然」に語るかで力量が問われるのだと思うけれど、しかし最初から専門用語なしで哲学やろうとしてもそれはダメで、そこはどんなスポーツでも型があって訓練があるでしょうという話です。

スポーツの習熟と哲学の思索に共通するところがあるなどとは夢にも思わなかった。というのは半分嘘で、薄々そうではないかと気づいていたのが本音である。


ラグビー的な動きを習得する上では少なくない反復練習が必要である。同じ動きを何度も繰り返すことにより、次第に身体はその動きができるように中身を変えてゆく。必要な筋肉がつき、神経系統が組み替わり、徐々にではあるが確実に身体は変容する。端から見ればよくも飽きずに同じことができるもんだと思われる向きも多いだろうが、やってる当人からすればそんなことは構いやしない。練習するたびに変容するほど劇的ではないにしても、日々の積み重ねである日とつぜんその瞬間は訪れる。今までできなかったことができるよろこび。その到来を心待ちにしながら繰り返す練習はやはり楽しいものである。


とはいえ、ただがむしゃらに動きまくればいいものではなく、やはりそこには多少の、いやかなりの「思考」が必要とされるのは言うまでもない。「根性練習」でもある程度までは上達するが、どこかで必ず壁にぶち当たる。ある一定以上のレベルには絶対に到達しない。これは僕が長らくの競技経験の中で確信を得た知見のひとつである。一兵卒二としては一人前になれても将校にはなれないと僕は思う。


ここで必要となる思考とはいかなるものか。つまり、スポーツの習熟に必要な思考とはどういうものかということだが、端的に言ってそれは「感覚の模索」である。


哲学では専門用語にあたるのがスポーツでは「感覚」になる。もっと平易にいえば「コツとカン」だ。たとえばパスを放るという動作を習得する場合を想定してみると、大切なポイントは「ハンズアップ」「ワンモーション」「キープスピード」になる。


「ハンズアップ」は文字通り手を上げるということ。パスは手を伸ばして相手に近いところでキャッチするのが基本で、そのために両手を上げなければならない。ボールが来てから手を出すのではなく、こちらから迎えにいくようにボールを掴む。これができると次の「ワンモーション」ができる。


ではその「ワンモーション」はなにかというと、一連の動作で放りなさいという指示で、キャッチしたボールをいったん懐に引き込んで、再びパスする際に振りかぶる動作をしてはいけませんよという意味である。つまり理想的なパスは、人がボールに触れてもそのスピードが変わらずに3人、4人とつながることで、そのためにはボールを抱え込む時間をなるべく少なくしなくてはいけない。パスが乱れた場合は仕方がないにしても、胸元にきたパスをササッと捌く技術が、とくにバックスには必要とされる。


「キープスピード」は読んで時のごとく走る速度を維持すること。パスを受けるからといってスピードを緩めてはいけない。むしろその瞬間にはギアをひとつ上げるのが理想だ。そうしなければ後ろにパスをつなぐたびに後退を余儀なくされる。ラグビーは陣地を稼ぐスポーツだ。パスのたびに後ろに下がってはトライを奪えるわけがない。


ラグビー経験者ではない人にとってはなんのことかチンプンカンプンかもしれないが、ここではなんとなく雰囲気を掴んでもらえればそれで構わない。


この3つのラグビー用語は「感覚の名称」である。言い換えれば「ある感覚を名指したもの」だ。「ハンズアップの感覚」、「ワンモーションの感覚」、「キープスピードの感覚」を、選手は反復練習によって身につけなければならない。哲学でいうところの「イデア」や「理性」や「現象学的還元」などの専門用語がおそらくはこれに該当するのではなかろうか。


これらの感覚を習得するまではこれらの言葉を反芻しなければならない。同時多発的に身体を動かしながらこれらの感覚を習得するために努力する。迷ったときやスランプ時はこれらの言葉に立ち返り、そしてまたグラウンドで反復する。そうして自分の中に「パス」という技術が身についてゆく。


それなりに練習を重ねればやがて中級者となる。そのときにはもう「ハンズアップ」も「ワンモーション」も「キープスピード」も必要なくなる。という表現は誤解を招くので丁寧に表現すると、意識のなかにおいておく必要がなくなる。つまりそれは感覚としてすでに「身」についているので、わざわざ意識のデスクトップに呼び出さなくてもよいのである。逆に呼び戻してしまうと、言葉面に引っ張られてしまって不自然な動きになりかねない。またその場の情況を無視したプレーを選択しかねない。これがとても厄介なところで、中級レベルに達したあとに基本を大切にし過ぎると伸び悩みの原因になる。


「少なくとも哲学について言えば、ある段階から先は専門用語を使うのはダメで、いかに日常用語で「自然」に語るかで力量が問われる」と東が指摘している通り、ラグビーにおいてもあるレベルにまで達すれば「ワンモーション」などの感覚を指し示す専門用語にとらわれることなく、情況に応じて「自然」に身体を動かすことが必要になってくる。ときにボールを迎えにいかずともよいし、抱え込んでもスピードを落としても、目の前の情況を突破できればそれでよいわけである。


ラグビーと哲学の習熟にはどこか似ている部分がある。だから僕は今こうして研究に携われているのであろうし、嬉々として取り組めているのであろう。これまでうまく説明できなかった「両者の類似」が、東浩紀のこの言葉によってストンと腑に落ちたのだった。


専門用語を使わずに考えを表現することの難しさは相当なもの。どこか上滑りしているかのような実感が伴うし、これまで理解していた内容がどこか朧げになっていくような心細さもある。こんなにも僕の研究は空虚だったっけと、無力感に苛まれるときもある。でもそれは、こういうからくりだ。だから、日常的な語彙で自然に表現しつつも専門書は読み進めなければならないのであって、一冊の本を書き終えた今はしばらく専門書を耽読する日々を過ごしたいと思う今日この頃である。

型に戻る、つまり専門用語に立ち戻って、またあれこれ思索をしようと思う。
ラグビー選手だったころを思い出しつつ。



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